第7話「銀のスキットル」
山肌の雪が解け去り、黒々とした土の隙間から、名も知らぬ淡い黄色の野花が顔をのぞかせていた。
木々の梢を渡る風には微かな土の温もりが混ざり始め、軒下を流れる水路のせせらぎが、冬の終わりを告げている。
エレノアは縁側に干していた麻の布巾を取り込み、丁寧に折り畳んで広間の棚へと収めた。
この数週間、夕星亭の周囲は穏やかな静けさに包まれていた。
近隣の木こりや狩人が時折立ち寄り、素朴な昼食を摂っていく以外は、泊まり客の訪れもない。
だが、夜になると決まって現れる常連が一人いた。
夜の八時を告げる壁時計の鐘が鳴り止んだ直後、宿の重い扉が静かに開いた。
足音の重さに、エレノアはすぐに違和感を覚えた。
いつもなら音もなく忍び寄るような軽やかな歩調が、今夜はわずかに引きずるように乱れている。
「……こんばんは」
広間に入ってきたレオンの姿を認めた瞬間、エレノアは息を呑んで駆け寄った。
黒い騎士外套の右肩から腕にかけて、鋭い刃物で引き裂かれたような深い裂け目が走っていた。
厚手の革鎧には泥と乾いた血がこびりつき、灰青色の瞳は深い疲労の色を宿している。
その顔色は青白く、唇は固く引き結ばれていた。
「レオン様……! そのお怪我は、一体どうなさったのですか」
「……何でもない。北の峡谷で、はぐれ狼の群れを掃討しただけだ」
レオンは短く答え、いつもの壁際の席へ向かおうとした。
足がもつれてテーブルの角に手をつく。
木製のテーブルがきしみ、彼の口から小さく苦痛の吐息が漏れた。
「立っていては駄目です。どうぞ、こちらの長椅子にお座りください。すぐに傷の手当てをいたします」
エレノアは駆け寄り、レオンの無事な方の左腕を支えた。
触れた外套の布地は冷え切っていた。
その奥の身体からは、傷口の熱のせいか尋常ではない熱気が発せられていた。
レオンはわずかに顔をしかめ、拒絶するように身を引こうとする。
エレノアの真っ直ぐな眼差しに気圧されたように、大人しく暖炉の前の長椅子へと腰を下ろした。
「……大した傷ではない。止血はしてある」
「大した傷かどうかは、傷口を拝見してから判断いたします。動かないでいてくださいね」
毅然とした口調で告げ、エレノアは厨房へと走った。
清潔な木桶に沸かした湯を張る。
清潔な晒し布と、薬効のあるハーブの軟膏、そして消毒用の強い酒精を手早く揃えて戻る。
長椅子の前にひざまずき、エレノアはレオンの右腕に手を伸ばした。
「上着を脱がせていただきますね。痛んだらおっしゃってください」
「……ああ」
慎重に外套の留め金を外し、裂けた革鎧の革紐を解いていく。
下に着ていた生成りのシャツをハサミで切り開くと、右肩から上腕にかけて、獣の爪によってえぐられたような三本の赤黒い傷跡が露わになった。
獣の爪による創傷の最大のリスクは、感染症による壊死や破傷風だ。
幸いにも傷は骨に達していなかったが、縁が赤く腫れ上がり、じくじくと血がにじんでいた。
エレノアは単に布で拭くだけでなく、煮沸して人肌に冷ました湯に、強い酒精を混ぜたもので直接傷口を洗い流した。
激痛を伴う洗浄に、レオンの身体が大きく跳ねた。
喉の奥で息が詰まる音がする。
だが、彼は一声も上げず、ただ拳を握りしめて痛みに耐えていた。
無骨で傷だらけの大きな手。
指の腹や掌に幾重にも重なった角質が、彼が重ねてきた過酷な修練の歳月を無言で伝えていた。
化膿の兆候である、傷口の熱感と特有の甘酸っぱい腐敗臭がないかを、指先で慎重に確認する。
冷水で絞った布を何度も取り替え、レオンを襲う悪寒と戦った。
祖母から教わった、傷口を塞ぐ効果のあるトウキンセンカの軟膏をたっぷりと塗り、手際よく清潔な布を巻き上げていった。
「これで、今夜は様子を見ましょう。熱が出なければ良いのですが」
「……恩に着る。手際がいいな」
レオンは包帯で固定された右腕を見つめ、低く呟いた。
額には脂汗が光り、荒い息が吐き出される。
「お茶を淹れてまいります。今夜は身体を芯から温める薬草茶にいたしますね」
エレノアが立ち上がろうとしたとき、レオンの左手が、彼女のエプロンの端をわずかに掴んだ。
振り返ると、青年は自らの懐へと左手を差し入れ、あの古い銀の携帯酒瓶を取り出した。
「……茶の前に、これを頼めるか」
差し出された銀のスキットルは、長年の使用によって銀のメッキが剥がれ、あちこちに深い窪みができていた。
その表面を、レオンの親指が愛おしむように、そして痛ましそうになぞる。
「はい。いつものグラスにお注ぎしますね」
エレノアは戸棚から足つきの小グラスを持ってくると、長椅子の前の小さな丸テーブルの上に置いた。
レオンが不器用に左手で蓋を回し、琥珀色の強い酒を八分目まで注ぐ。
立ち上る刺激的な酒精の香りと共に、エレノアの胸の奥に、あの懐かしい感覚が押し寄せてきた。
乾いた砂煙の匂い。
灼熱の陽光の下で熱せられた鉄の匂い。
そして、どこまでも真っ直ぐで、少しおどけた青年の笑い声。
長椅子のすぐ傍らの空気が、ふわりと温かな揺らぎを見せている。
「……あいつは、キースという名だった」
レオンが、ぽつりぽつりと語り始めた。
痛みを散らすためか、あるいはエレノアの静かな佇まいに背中を押されたのか、その声音はいつになく穏やかだった。
「王都の貧民街の出身でな。騎士団の試験で初めて会ったとき、あいつは木剣一本で名門貴族の子弟を叩きのめして笑っていた。『いつか辺境で手柄を立てて、自分の酒場を開くんだ』と、ばかみたいに大きな夢を語る男だった」
レオンの瞳に、遠い日の光が宿る。
「配属先も同じで、俺たちはいつも二人で先陣を切った。無口な俺と、口から先に生まれたようなあいつは、隊の連中から『双子剣』と呼ばれていたよ。どんな過酷な戦場でも、あいつが隣にいれば、死ぬ気など微塵もしなかった」
レオンは言葉を切り、テーブルの上の酒杯を見つめた。
その顔に、深い苦渋の影が差す。
レオンの右手の親指が、無意識のうちに人差し指の付け根の皮膚を、何かを拭い去ろうとするかのように強く擦り上げていた。
その強張った横顔と、焦点の定まらない灰青色の双眸は、今も泥水にまみれた凄惨な戦場の光景を見つめ続けているかのようだった。
「二年前の春だった。北の峡谷で、大規模な魔獣の群れに退路を断たれた。本隊を逃がすため、誰かが殿軍として谷の入り口を塞がねばならなかった。……俺が残るはずだったんだ」
レオンの左手が、自らの膝の布地を強く握りしめた。
「だが、あいつは俺を後ろから殴り倒し、自分の馬に乗せて友軍の元へと送り返した。『お前は副団長になる器だ。死ぬには早すぎる。酒の奢りは、あの街の宿屋で待ってるぜ』……それが、あいつの最後の言葉だった」
静まり返った広間に、暖炉の薪の爆ぜる音だけが響く。
「翌朝、救援部隊を率いて谷へ戻ったときには……残っていたのは、岩肌に突き刺さったこのスキットルと、あいつの折れた剣だけだった」
レオンはうつむき、震える息を吐き出した。
「俺がもっと強ければ。あのとき、あいつの拳を振り払って、俺が残っていれば。……そう思わない日は、一日たりともなかった。俺はあいつの命を奪って、生き延びただけだ。それなのに、俺だけが副団長になり、こうして温かい屋根の下で息をしている」
膝を握りしめる青年の指先は、血の気が引くほど白く強張っていた。
生き残ってしまった己を赦せず、自らを罰するように刃の前に身を晒し続けてきた男の痛みが、震える吐息となって静まり返った広間に落ちる。
「レオン様。背後を警戒し続けることは、戦場では強さなのかもしれません。けれど、この屋根の下にまでその厳しさを持ち込む必要はありませんわ。張り詰めた弓の弦は、いつか切れてしまいます。ここは詰所ではなく、あなたを傷つける敵もおりません。私の前でくらい、剣を置いて息をついてください。この宿では、誰もあなたを責めたりはいたしません」
レオンが顔を上げた。
灰青色の瞳に、戸惑うような光がかすかに揺れていた。
「キース様は、あなたに罰を受けてほしくて、命を懸けたのではありません。もしキース様が、あなたに死んでほしかったなら、あのとき背中を押して逃がしたりしませんでした。キース様が守りたかったのは、あなたの命であり、あなたがこれから歩む未来そのものです」
エレノアの胸の奥へ、あたたかな気配が流れ込んでくる。
悔やむ声でも、責め立てる棘でもない。
ただ、友が今宵も無事に息災でいることへの、飾り気のない笑い声のような響きだった。
「キース様は、あなたを責めるためにここへ来ているのではありません。無事に戻ってきたことを、隣で一緒に喜んでいらっしゃるのです」
その瞬間、ふわりと、強い風が広間を通り抜けた。
閉ざされた窓のカーテンが小さく揺れ、テーブルの上の小グラスが、カタリと乾いた音を立てた。
二人の視線がテーブルへと向かう。
注がれたばかりの琥珀色の蒸留酒が、まるで誰かが勢いよく呷ったかのように、半分以上も一気に減っていた。
そして、レオンの傷ついた右肩の包帯の上に、親しい戦友が背中をぽんと叩いたかのような、微かな重みが走った。
「あ……」
レオンの唇から、かすれた声が漏れた。
青年は右肩に左手を当て、その目に見えない温もりを確かめるように、じっと瞳を閉じた。
「……ばか野郎。相変わらず、酒を飲むのが早いな、お前は」
レオンの口元に、微かな、しかし心からの苦笑が浮かんだ。
右肩に置かれた手から力が抜け、張り詰めていた背中の筋肉がゆっくりと弛緩していく。
エレノアは静かに微笑み、立ち上がると、厨房へ向かって歩き出した。
今夜淹れる薬草茶には、ほんの少しだけ、蜂蜜を多めに入れてあげようと思いながら。




