第6話「主の消えた食卓」
冬が去り、街道の雪が泥水となって流れ出す、季節の変わり目のことだった。
正午を少し回った頃、夕星亭の前の街道に、この辺境には不釣り合いな豪華な四輪馬車が滑り込んできた。
磨き上げられた黒塗りの車体には、金泥で優美な家紋が描かれている。
王都の子爵家、ハミルトン家の紋章だった。
エレノアの手が、持っていた布巾の上でぴたりと止まる。
扉が開き、従者が恭しくステップを降ろすと、中から一人の貴公子が降り立った。
仕立ての良い紺青のウールの上着に、銀の刺繍が施されたベスト。
波打つ金髪と、甘やかな顔立ち。
かつてエレノアの婚約者であった男、ジュリアン・ハミルトン子爵令息だった。
だが、かつての傲慢なまでの輝きは、その姿のどこにも見当たらなかった。
王都の一流の職人が仕立てたはずの上着には、長旅による泥跳ねと深い皺が刻まれ、その顔色は土気色に沈んでいる。
頬は削げ、目の下には濃い隈が張り付いていた。
ジュリアンは周囲の粗末な木造建築を不快そうに見回すこともなく、ただ幽霊のように覚束ない足取りで、宿の扉を押し開けた。
カラン、と乾いたベルの音が響く。
「……エレノア」
かすれた、力のない声だった。
エレノアはカウンターの内側に立ち、背筋を真っ直ぐに伸ばして、元婚約者を見据えた。
「いらっしゃいませ、ハミルトン子爵令息様。このような最果ての宿へ、一体どのようなご用件でしょうか」
冷たくも、熱くもない、一介の宿屋の主としての事務的な声音。
ジュリアンはその響きに打たれたように、小さく身を竦めた。
「そんな他人行儀な呼び方はやめてくれ。……君が、本当にこんな場所にいたなんてな」
「ここは亡き祖母が遺した宿です。今の私の大切な居場所でございます」
ジュリアンは広間を見回し、それから力なく椅子の一つに崩れ落ちるように腰掛けた。
供の者を連れずに一人で中に入ってきたようだった。
「お茶でも出しましょうか。王都のような上等な茶葉はございませんが」
「……何でもいい。喉が焼けるように渇いているんだ」
エレノアは厨房へ向かう。
冷たい井戸水に、乾燥させた林檎の皮とミントを浮かべた果実水を淹れた。
木製のトレイに乗せてテーブルに運ぶと、ジュリアンは震える両手で陶器のカップを取り、貪るように喉へと流し込んだ。
息を吐き出した男の横顔を見つめながら、エレノアは自らの心の内に耳を澄ませた。
この宿へやってくる客たちが放つ、あの特有の香り、死者を待つ魂の震えが、ジュリアンからも届くのだろうか。
だが、彼から漂ってくるのは、死者の気配ではなかった。
あるのは、ひどく冷え切った石造りの屋敷の匂いと、腐りかけた果実のような、頽廃と孤独の苦い悪臭だけだった。
「連れ戻しに来た、と言ったら、君は笑うだろうか」
ジュリアンがカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
「笑いはいたしません。ただ、お断り申し上げるだけです。私とあなたの婚約は、半年前に王都の夜会の場で、大勢の貴族たちの前で正式に破棄されました。実家からも除籍された私には、ハミルトン家に戻る筋合いは一切ございません」
「わかっている。そんなことは、百も承知だ」
ジュリアンは頭を抱え、苦痛に顔を歪めた。
「だが、耐えられないんだ。王都でアシュレイ侯爵家が、君の追放劇の不当性を調査し始めた。君と和解したという事実がなければ、ハミルトン家は社交界で孤立する。君を許してやりに来たんだ、エレノア。田舎の宿屋の女将などという汚名を濯いでやる」
「……新しい婚約者様がいらっしゃるはずでしょう。男爵令嬢のマリア様が」
エレノアの静かな指摘に、ジュリアンは自嘲するように唇を歪めた。
「マリアは……僕を愛していたわけではなかった。彼女が欲しかったのは、ハミルトン家の財産と、夜会での華やかな席次だけだったんだ。毎日、ドレスや宝飾品をねだり、僕が少しでも領地の仕事で疲れを見せれば、不満そうに部屋に閉じこもる。今では別の裕福な伯爵子弟と浮名を流しているよ」
哀れな話だった。
だが、エレノアの掌には汗ひとつ滲まず、胸の奥は冷え切った灰のように静まり返っていた。
怒りも同情も湧き上がらず、ただ冷たい風が吹き抜けた後のような、乾いた虚寥感だけが広がっていく。
「僕が間違っていたんだ、エレノア。あのとき、僕は君の本当の価値を何もわかっていなかった。……君がいなくなってから、僕の家の食卓には、誰も座らなくなったんだ。君がいた頃は、朝になれば、食卓には君が庭から摘んできた花が一輪飾られていた。僕の好みに合わせた温かい料理が並び、父上も母上も、君が淹れてくれた紅茶を飲みながら、領地の話や他愛のない笑い話をしていた。あれは、君が作ってくれていた空間だったんだ」
ジュリアンの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「母が息を引き取ったその日から、ハミルトン家の広大な屋敷は、土台の木組みが芯から腐り果てた廃屋と同じだった。派手な絨毯の裏側で、古参の従僕たちは押し黙り、壁の隙間からは互いを監視し合う冷たい隙間風が絶え間なく吹き抜けていた。あの家は、君が去ったその日から、死んでしまったんだ」
エレノアは静かに息を整え、まっすぐに元婚約者を見据えた。
「食卓に火が灯らなくなったのは、私の不在のせいではありません。あなたがご自身の屋敷で働く者たちや、暮らしそのものに目を向けてこられなかったからです。早朝の市場の仕入れも、料理人たちの手当てや領民の声を聞くことも、私はハミルトン家の一員となる覚悟があったからこそ引き受けておりました。それを当然の雑用と見做し、切り捨てたのはあなたです。私の時間も心も、もうハミルトン家へ戻ることはありません。どうぞ王都へお帰りください」
「エレノア……頼む、僕を許してくれ。もう一度だけでいい、やり直させてほしい……!」
ジュリアンが椅子から立ち上がり、エレノアの手を取ろうと身を乗り出した。
その瞬間。
ガタッ、と。
広間の扉が外から静かに押し開かれた。
冷涼な夕暮れの風とともに足を踏み入れてきたのは、黒い騎士外套をまとい長身の青年、レオン・ヴァルハイトだった。
腰の長剣が微かに触れ合う。
研ぎ澄まされた刃のような殺気が、一瞬にして広間の空気を凍りつかせた。
レオンの灰青色の瞳が、テーブル越しにエレノアへ迫るジュリアンを鋭く射抜く。
「……客の配慮を欠く者は、退去願おうか」
低く、底冷えのする声音だった。
ジュリアンは青ざめた顔で振り返り、相手の立ち姿から放たれる歴戦の威圧感に気圧されたように息を呑んだ。
「き、君は……何者だ」
「この宿の、客だ」
レオンは無骨な足取りで進み出ると、エレノアとジュリアンの間に割って入るようにして立った。
物理的な防壁として、その広い背中がエレノアの視界を覆う。
「街道に見慣れない豪華な馬車が停まっていた。護衛の兵を外に待たせたまま、辺境の宿で女性に手を上げようとは、王都の貴族はずいぶんと品性を欠いているようだな」
「な……脅迫などしていない! 僕はただ、元婚約者と話をしに来ただけだ!」
「話は終わったはずだ。この女主人の顔を見ればわかる」
レオンの冷徹な一言に、ジュリアンは言葉を失った。
エレノアはレオンの背後から、静かに進み出た。
そして、ジュリアンに向けて、完璧な礼法で一礼した。
「ハミルトン様。お茶代は結構でございます。どうぞ、王都へお戻りください。あなたの家の食卓に再び火を灯すことができるのは、私ではなく、あなたご自身のこれからの生き方だけでございます」
凛としたその宣告に、ジュリアンは肩を落とした。
もはや、どんな言葉もエレノアの心には届かない。
彼女はもう、王都の籠の中で羽を休めていた哀れな鳥ではなく、自らの足で大地に立つ宿の女主人だった。
「……すまなかった」
ジュリアンは絞り出すように呟き、よろめく足取りで宿の扉を開けた。
馬車が泥を撥ねて走り去る重い車輪の音が、夕闇の街道へと遠ざかっていく。
静寂が戻った広間で、エレノアは深く息を吐き出した。
胸の中の澱が洗い流されたような、不思議な軽やかさがあった。
「……助けていただき、ありがとうございました、レオン様」
レオンは長剣を壁際に立てかけ、いつもの壁際の席へと腰を下ろした。
「礼には及ばない。巡回の途中で、怪しい馬車が見えたから立ち寄っただけだ」
無愛想に言いながら、レオンは自らの懐から、あの古い銀の携帯酒瓶を取り出した。
エレノアは小さく微笑み、何も言わずに厨房へ向かう。
温かいハーブの紅茶と、足つきの透明な小グラスをトレイに乗せて運んだ。
レオンはグラスに酒を満たし、それを誰も座っていない隣の空席へと押しやる。
そして、湯気の立つ紅茶を一口啜ると、灰青色の瞳を伏せ、ぽつりと言った。
「……あいつの言っていたことは、一理ある」
「え?」
エレノアが見つめると、レオンはカップの縁を指先でなぞりながら、静かに続けた。
「君が淹れる茶は、温かい。……この宿に来ると、凍りついていた何かが、少しだけ息を吹き返すような気がする」
不器用な騎士が口にした、最大限の賛辞だった。
エレノアの頬が、暖炉の火のせいばかりではなく、ほんのりと赤く染まる。
隣のテーブルに置かれたグラスの蒸留酒が、またわずかに液面を下げていた。
見えない誰かが、親友の素直な言葉に満足して、喉を鳴らしたかのように。
夜の帳が下りた夕星亭に、パチリと薪の爆ぜる音が心地よく響き渡っていた。




