第5話「鈴の音と小さな旅人」
降り積もった雪が屋根の端からせり出し、細い氷柱が朝の光を受けて青く透き通っていた。
エレノアは玄関の雪かきを終え、木製の鋤を壁に立てかける。
吐く息は白く凍りつき、冷えた耳の奥がじんじんと痛んだ。
手袋を外してかじかんだ指先を息で温めていると、街道の向こうから、定期運行の乗合馬車が車輪を軋ませて近づいてきた。
宿の前で速度を落とした馬車から、御者が重い足取りで降りてくる。
御者は後部座席の扉を開けると、中から小さな荷物を降ろし、それから一人の幼い少女を抱き下ろした。
「おい、お嬢ちゃん。ここが言ってた宿屋だ。迎えが来るまで、中でおとなしく待ってるんだぞ」
少女はこくりとうなずき、御者に深々と頭を下げた。
馬車は再び車輪の音を立てて走り去る。
白銀の街道には、小さな影がぽつんと一つだけ残された。
エレノアはエプロンを払い、急いで少女の元へと駆け寄った。
「こんにちは。寒かったでしょう、どうぞ中へ入って」
少女はびくっと肩を跳ねさせ、胸の前に抱えた擦り切れた布の鞄をぎゅっと握りしめた。
歳は七つか八つほどだろうか。
つぎはぎだらけの赤い外套をまとい、大きすぎる毛糸の帽子を目深に被っている。
帽子からのぞく亜麻色の髪は乱れ、寒さのせいで小さな鼻の頭が林檎のように赤くなっていた。
「……ここ、ゆうづつてい、ですか」
舌足らずだが、凛とした澄んだ声だった。
「ええ、そうよ。夕星亭へようこそ。私はここの女主人のエレノア。あなたのお名前を聞いてもいいかしら」
「……リリィ。リリィっていうの」
「リリィちゃんね。さあ、暖炉の火が燃えているわ。足元が凍えてしまう前に、お入りなさい」
エレノアは少女の小さな手を取った。
氷のように冷え切った指先が、エレノアの手のひらの中で小さく震えていた。
広間へ案内し、暖炉の前の長椅子に座らせる。
エレノアは急いで厨房から温かい牛の乳を小鍋で温め、蜂蜜を一匙溶かして運んだ。
素焼きのマグカップから立ち上る甘い湯気に、少女の大きな瞳が引き寄せられる。
「ふうふうして、ゆっくり飲んでね」
リリィは両手でマグカップを抱え、慎重に口をつけた。
一口含むたびに、凍りついていた小さな身体が、少しずつ緊張を解いていくのがわかった。
「……あまい」
「よかった。お腹は空いていないかしら。今、麦のパンを焼いているところなのよ」
リリィは嬉しそうに目尻を下げたが、すぐに思い出したように背筋を伸ばし、膝の上の布鞄をなでた。
「あのね、リリィ、お部屋にとまりたいの。これ、おとまりのおかね」
少女の小さな手のひらが開き、そこには鈍く光る銅貨が五枚、誇らしげに並べられていた。
大人の宿泊代には遠く及ばない、子供が集められる精一杯の財産だった。
「十分すぎるほどよ。ありがとう、リリィちゃん。大切に預かるわね」
エレノアは銅貨を丁寧に受け取り、代わりに祖母の遺した木彫りの小さな鍵を手渡した。
「何日くらい、お泊まりになる予定かしら。誰かと待ち合わせをしているの?」
その問いかけを発した瞬間、エレノアの胸の奥に、澄み切った山の風が吹き抜けた。
削り出されたばかりの生木の香りと、日陰の雪の下で凍てつく土の冷たさが、胸を刺すような鋭さで混ざり合って届いてくる。
少女の背後に重なる影は、まだ少年の面影を残した、背の高い若者のものだった。
泥にまみれた作業着を着て、妹のために不器用な手で木を削り続ける、優しい兄の姿。
そして、その魂はもう、この世の光の下を歩いていない。
山での落石か、あるいは冬の雪崩か。
過酷な労働の中で命を落とした少年の気配が、悲痛なほどの慈しみとともに、リリィの小さな背中を包み込んでいた。
リリィは真っ直ぐな瞳で、エレノアを見上げた。
「お兄ちゃんを待つの。お兄ちゃん、山のお仕事が終わったら、ここでリリィを連れて、南の街へお引越しするって言ってたの」
少女の口調には、一点の疑いもなかった。
「お兄ちゃん、アルフレッドっていうの。とっても強くて、木でいろんなおもちゃを作ってくれるの。今日、来るかなあ」
「……そう。アルフレッド様というのね」
エレノアは喉の奥に込み上げてくる熱いものを必死に飲み込み、穏やかに微笑んだ。
「今日はもう日が暮れてしまうから、明日の朝かもしれないわね。今夜は温かいベッドで、ゆっくりお休みになりなさい」
その夜、エレノアは一階の小さな部屋にリリィを寝かせた。
暖炉に薪をくべ、柔らかな毛布を二重に掛けてやると、幼い少女は旅の疲れからか、すぐに可愛らしい寝息を立て始めた。
だが、翌朝。
夜明けとともに目を覚ましたリリィは、広間に降りてくるなり、期待に満ちた顔でエレノアを見上げた。
「エレノアさん、今日はお兄ちゃん来る?」
エレノアの手が、一瞬だけ止まる。
胸を締めつけられるような痛みに耐えながら、彼女は屈み込んでリリィの目線に合わせた。
「……今日はまだ、雪が深くて道が悪いみたい。もう少し、待ってみましょうね」
「うん! リリィ、いい子で待ってる!」
それから三日間、リリィは毎朝、同じ言葉を繰り返した。
「今日はお兄ちゃん来る?」
「今日はお兄ちゃん、お仕事終わったかな?」
エレノアはその問いに、決して嘘をつくことはできず、かといって残酷な真実を突きつけることもできず、ただ温かいスープと焼き立てのパンを差し出し、少女の小さな手を握り続けた。
四日目の夕暮れ、外は猛吹雪となった。
地吹雪が窓を激しく叩き、宿の木組みが軋むような風が山から吹き荒れる。
広間の暖炉の前で、リリィは膝を抱え、寂しそうに火を見つめていた。
「お兄ちゃん……寒くないかな。迷子になってないかな」
「大丈夫よ。アルフレッド様は、リリィちゃんのことを一番に考えていらっしゃるわ」
エレノアが少女の肩を抱き寄せた、そのときだった。
チリン、と。
風の唸り声の隙間を縫って、澄んだ金属の音が玄関のあたりから響いた。
荷馬車の車軸に吊るすような、素朴な真鍮の鈴の音だった。
リリィが顔を上げた。
「お兄ちゃんの鈴の音だ……!」
少女は長椅子から飛び降り、玄関へと駆け出した。
エレノアも慌てて後を追う。
玄関の重い木製扉は、内側から固く閂が掛けられたままだった。
隙間風すら入らないはずのその場所で、敷居の石畳の上に、何かが落ちていた。
雪で濡れた、かすかな靴跡。
大人の男の、無骨な作業靴の輪郭が、冷たい石の上に水滴となって点々と続いていた。
そして、その靴跡の先に、手のひらに収まるほどの、小さな木彫りの小鳥が転がっていた。
荒削りの松の木で作られた、まるまる太った小鳥の像。
その腹の下には、小さな真鍮の鈴が針金で括り付けられていた。
「あ……これ、お兄ちゃんが作るって言ってた、冬の小鳥さん……!」
リリィは膝をつき、両手でその木彫りを拾い上げた。
木肌からは、削りたての松のヤニの香りと、懐かしい温もりが微かに立ち上っていた。
小鳥の羽の裏側に、ナイフの先で不器用に刻まれた文字があった。
『リリィへ。ずっと、見守っているよ』
玄関の空気が、ふわりと温んだ。
大きな誰かの手が、リリィの頭を優しくなで、その小さな背中を抱きしめたかのように、柔らかな風が少女の髪を揺らした。
リリィは木彫りの小鳥を胸に強く抱きしめ、じっと足元の濡れた靴跡を見つめた。
その瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち、石畳の染みを濡らしていく。
「お兄ちゃん……もう、お山から降りてこられないの……?」
少女のかすれた声に、エレノアは静かに寄り添い、彼女の小さな肩を包み込んだ。
「アルフレッド様はね、リリィちゃんに寂しい思いをさせたくなくて、この小鳥を届けてくれたのよ。姿は見えなくても、あなたのお兄様は、ずっとあなたの傍にいてくれるわ」
リリィは声を上げて泣かなかった。
ただ、木彫りの小鳥を両手でぎゅっと胸に押し当て、小さな鈴をチリンと鳴らしながら、溢れ出る雫を落とし続けた。
冷え切った玄関の敷石に、幾粒もの染みが静かに広がっていく。
翌朝、吹雪は嘘のように止み、眩しい太陽が新雪を照らしていた。
宿の前に、馬車が一台停まった。
降りてきたのは、王都の郊外で農場を営む、リリィの伯父夫婦だった。
二人は宿から出てきたリリィを見るなり、駆け寄って少女を抱きしめた。
「ああ、リリィ! 無事だったのか……! 鉱山の事故を聞いて、お前を探し回っていたんだよ」
「おじちゃん、おばちゃん」
リリィは伯父の胸の中で、静かに微笑んだ。
その首元には、細い革紐で吊るされた木彫りの小鳥が、陽光を受けて揺れていた。
「リリィ、お兄ちゃんとお別れできたの。お兄ちゃん、小鳥さんをくれたよ」
伯父は木彫りの小鳥を見てうなずいた。
「そうか……アルフレッドが、お前を守ってくれたんだな。さあ、家へ行こう。これからは、私たちが本当の娘としてお前を育てるからね」
馬車に乗り込む前、リリィはエレノアの元へ駆け寄り、エプロンの裾をきゅっと掴んだ。
「エレノアさん、ありがとう。お兄ちゃん、ここのスープがとっても温かいねって言ってた気がするの」
「ええ。いつでも遊びにいらっしゃいね、リリィちゃん」
エレノアが頭をなでると、リリィは満面の笑顔を咲かせた。
馬車が動き出し、窓から身を乗り出して手を振る少女の姿が、遠く雪景色の向こうへと消えていく。
エレノアは空を見上げた。
どこまでも青く澄んだ空の彼方に、小さな鳥が二羽、並んで飛んでいくのが見えた。




