↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夕星亭の追放令嬢~死者を待つ辺境の宿で、不器用な騎士様と温かいスープを~  作者: 黒崎 隼人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/16

第5話「鈴の音と小さな旅人」

 降り積もった雪が屋根の端からせり出し、細い氷柱《つらら》が朝の光を受けて青く透き通っていた。

 エレノアは玄関の雪かきを終え、木製の鋤《すき》を壁に立てかける。

 吐く息は白く凍りつき、冷えた耳の奥がじんじんと痛んだ。

 手袋を外してかじかんだ指先を息で温めていると、街道の向こうから、定期運行の乗合馬車が車輪を軋ませて近づいてきた。

 宿の前で速度を落とした馬車から、御者が重い足取りで降りてくる。

 御者は後部座席の扉を開けると、中から小さな荷物を降ろし、それから一人の幼い少女を抱き下ろした。


「おい、お嬢ちゃん。ここが言ってた宿屋だ。迎えが来るまで、中でおとなしく待ってるんだぞ」


 少女はこくりとうなずき、御者に深々と頭を下げた。

 馬車は再び車輪の音を立てて走り去る。

 白銀の街道には、小さな影がぽつんと一つだけ残された。

 エレノアはエプロンを払い、急いで少女の元へと駆け寄った。


「こんにちは。寒かったでしょう、どうぞ中へ入って」


 少女はびくっと肩を跳ねさせ、胸の前に抱えた擦り切れた布の鞄をぎゅっと握りしめた。

 歳は七つか八つほどだろうか。

 つぎはぎだらけの赤い外套をまとい、大きすぎる毛糸の帽子を目深に被っている。

 帽子からのぞく亜麻色の髪は乱れ、寒さのせいで小さな鼻の頭が林檎のように赤くなっていた。


「……ここ、ゆうづつてい、ですか」


 舌足らずだが、凛とした澄んだ声だった。


「ええ、そうよ。夕星亭へようこそ。私はここの女主人のエレノア。あなたのお名前を聞いてもいいかしら」


「……リリィ。リリィっていうの」


「リリィちゃんね。さあ、暖炉の火が燃えているわ。足元が凍えてしまう前に、お入りなさい」


 エレノアは少女の小さな手を取った。

 氷のように冷え切った指先が、エレノアの手のひらの中で小さく震えていた。

 広間へ案内し、暖炉の前の長椅子に座らせる。

 エレノアは急いで厨房から温かい牛の乳を小鍋で温め、蜂蜜を一匙溶かして運んだ。

 素焼きのマグカップから立ち上る甘い湯気に、少女の大きな瞳が引き寄せられる。


「ふうふうして、ゆっくり飲んでね」


 リリィは両手でマグカップを抱え、慎重に口をつけた。

 一口含むたびに、凍りついていた小さな身体が、少しずつ緊張を解いていくのがわかった。


「……あまい」


「よかった。お腹は空いていないかしら。今、麦のパンを焼いているところなのよ」


 リリィは嬉しそうに目尻を下げたが、すぐに思い出したように背筋を伸ばし、膝の上の布鞄をなでた。


「あのね、リリィ、お部屋にとまりたいの。これ、おとまりのおかね」


 少女の小さな手のひらが開き、そこには鈍く光る銅貨が五枚、誇らしげに並べられていた。

 大人の宿泊代には遠く及ばない、子供が集められる精一杯の財産だった。


「十分すぎるほどよ。ありがとう、リリィちゃん。大切に預かるわね」


 エレノアは銅貨を丁寧に受け取り、代わりに祖母の遺した木彫りの小さな鍵を手渡した。


「何日くらい、お泊まりになる予定かしら。誰かと待ち合わせをしているの?」


 その問いかけを発した瞬間、エレノアの胸の奥に、澄み切った山の風が吹き抜けた。

 削り出されたばかりの生木の香りと、日陰の雪の下で凍てつく土の冷たさが、胸を刺すような鋭さで混ざり合って届いてくる。

 少女の背後に重なる影は、まだ少年の面影を残した、背の高い若者のものだった。

 泥にまみれた作業着を着て、妹のために不器用な手で木を削り続ける、優しい兄の姿。

 そして、その魂はもう、この世の光の下を歩いていない。

 山での落石か、あるいは冬の雪崩か。

 過酷な労働の中で命を落とした少年の気配が、悲痛なほどの慈しみとともに、リリィの小さな背中を包み込んでいた。

 リリィは真っ直ぐな瞳で、エレノアを見上げた。


「お兄ちゃんを待つの。お兄ちゃん、山のお仕事が終わったら、ここでリリィを連れて、南の街へお引越しするって言ってたの」


 少女の口調には、一点の疑いもなかった。


「お兄ちゃん、アルフレッドっていうの。とっても強くて、木でいろんなおもちゃを作ってくれるの。今日、来るかなあ」


「……そう。アルフレッド様というのね」


 エレノアは喉の奥に込み上げてくる熱いものを必死に飲み込み、穏やかに微笑んだ。


「今日はもう日が暮れてしまうから、明日の朝かもしれないわね。今夜は温かいベッドで、ゆっくりお休みになりなさい」


 その夜、エレノアは一階の小さな部屋にリリィを寝かせた。

 暖炉に薪をくべ、柔らかな毛布を二重に掛けてやると、幼い少女は旅の疲れからか、すぐに可愛らしい寝息を立て始めた。

 だが、翌朝。

 夜明けとともに目を覚ましたリリィは、広間に降りてくるなり、期待に満ちた顔でエレノアを見上げた。


「エレノアさん、今日はお兄ちゃん来る?」


 エレノアの手が、一瞬だけ止まる。

 胸を締めつけられるような痛みに耐えながら、彼女は屈み込んでリリィの目線に合わせた。


「……今日はまだ、雪が深くて道が悪いみたい。もう少し、待ってみましょうね」


「うん! リリィ、いい子で待ってる!」


 それから三日間、リリィは毎朝、同じ言葉を繰り返した。


「今日はお兄ちゃん来る?」


「今日はお兄ちゃん、お仕事終わったかな?」


 エレノアはその問いに、決して嘘をつくことはできず、かといって残酷な真実を突きつけることもできず、ただ温かいスープと焼き立てのパンを差し出し、少女の小さな手を握り続けた。

 四日目の夕暮れ、外は猛吹雪となった。

 地吹雪が窓を激しく叩き、宿の木組みが軋むような風が山から吹き荒れる。

 広間の暖炉の前で、リリィは膝を抱え、寂しそうに火を見つめていた。


「お兄ちゃん……寒くないかな。迷子になってないかな」


「大丈夫よ。アルフレッド様は、リリィちゃんのことを一番に考えていらっしゃるわ」


 エレノアが少女の肩を抱き寄せた、そのときだった。

 チリン、と。

 風の唸り声の隙間を縫って、澄んだ金属の音が玄関のあたりから響いた。

 荷馬車の車軸に吊るすような、素朴な真鍮の鈴の音だった。

 リリィが顔を上げた。


「お兄ちゃんの鈴の音だ……!」


 少女は長椅子から飛び降り、玄関へと駆け出した。

 エレノアも慌てて後を追う。

 玄関の重い木製扉は、内側から固く閂《かんぬき》が掛けられたままだった。

 隙間風すら入らないはずのその場所で、敷居の石畳の上に、何かが落ちていた。

 雪で濡れた、かすかな靴跡。

 大人の男の、無骨な作業靴の輪郭が、冷たい石の上に水滴となって点々と続いていた。

 そして、その靴跡の先に、手のひらに収まるほどの、小さな木彫りの小鳥が転がっていた。

 荒削りの松の木で作られた、まるまる太った小鳥の像。

 その腹の下には、小さな真鍮の鈴が針金で括り付けられていた。


「あ……これ、お兄ちゃんが作るって言ってた、冬の小鳥さん……!」


 リリィは膝をつき、両手でその木彫りを拾い上げた。

 木肌からは、削りたての松のヤニの香りと、懐かしい温もりが微かに立ち上っていた。

 小鳥の羽の裏側に、ナイフの先で不器用に刻まれた文字があった。

『リリィへ。ずっと、見守っているよ』

 玄関の空気が、ふわりと温んだ。

 大きな誰かの手が、リリィの頭を優しくなで、その小さな背中を抱きしめたかのように、柔らかな風が少女の髪を揺らした。

 リリィは木彫りの小鳥を胸に強く抱きしめ、じっと足元の濡れた靴跡を見つめた。

 その瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち、石畳の染みを濡らしていく。


「お兄ちゃん……もう、お山から降りてこられないの……?」


 少女のかすれた声に、エレノアは静かに寄り添い、彼女の小さな肩を包み込んだ。


「アルフレッド様はね、リリィちゃんに寂しい思いをさせたくなくて、この小鳥を届けてくれたのよ。姿は見えなくても、あなたのお兄様は、ずっとあなたの傍にいてくれるわ」


 リリィは声を上げて泣かなかった。

 ただ、木彫りの小鳥を両手でぎゅっと胸に押し当て、小さな鈴をチリンと鳴らしながら、溢れ出る雫を落とし続けた。

 冷え切った玄関の敷石に、幾粒もの染みが静かに広がっていく。

 翌朝、吹雪は嘘のように止み、眩しい太陽が新雪を照らしていた。

 宿の前に、馬車が一台停まった。

 降りてきたのは、王都の郊外で農場を営む、リリィの伯父夫婦だった。

 二人は宿から出てきたリリィを見るなり、駆け寄って少女を抱きしめた。


「ああ、リリィ! 無事だったのか……! 鉱山の事故を聞いて、お前を探し回っていたんだよ」


「おじちゃん、おばちゃん」


 リリィは伯父の胸の中で、静かに微笑んだ。

 その首元には、細い革紐で吊るされた木彫りの小鳥が、陽光を受けて揺れていた。


「リリィ、お兄ちゃんとお別れできたの。お兄ちゃん、小鳥さんをくれたよ」


 伯父は木彫りの小鳥を見てうなずいた。


「そうか……アルフレッドが、お前を守ってくれたんだな。さあ、家へ行こう。これからは、私たちが本当の娘としてお前を育てるからね」


 馬車に乗り込む前、リリィはエレノアの元へ駆け寄り、エプロンの裾をきゅっと掴んだ。


「エレノアさん、ありがとう。お兄ちゃん、ここのスープがとっても温かいねって言ってた気がするの」


「ええ。いつでも遊びにいらっしゃいね、リリィちゃん」


 エレノアが頭をなでると、リリィは満面の笑顔を咲かせた。

 馬車が動き出し、窓から身を乗り出して手を振る少女の姿が、遠く雪景色の向こうへと消えていく。

 エレノアは空を見上げた。

 どこまでも青く澄んだ空の彼方に、小さな鳥が二羽、並んで飛んでいくのが見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。