第4話「届かなかった林檎のパイ」
春の兆しはまだ遠く、街道の雪は踏み固められて凍りついていた。
レオンが去ってから二日後の昼下がり、夕星亭の扉が頼りなげな軋みを立てて開いた。
冷たい風とともに足を踏み入れてきたのは、仕立ての丁寧な、しかし泥跳ねで汚れた青いウールの外套を着た婦人だった。
歳は五十を少し過ぎた頃だろうか。
手入れされた亜麻色の髪を後ろで束ね、腕には編みかごの小さな手提げをしっかりと抱えている。
上品な佇まいだが、その顔色には隠しきれない疲労と、張り詰めた焦燥が色濃くにじんでいた。
「ごめんください。……こちらで、部屋をお借りできますでしょうか」
「いらっしゃいませ。どうぞ、中へお入りください」
エレノアが出迎えると、婦人はほっと胸をなで下ろし、泥で汚れたブーツのつま先を気まずそうに引いた。
「申し訳ありません、足元を汚してしまって。王都からの乗合馬車が手前の峠で立ち往生してしまい、そこから歩いてきたものですから」
「大変でございましたね。どうぞお気になさらず、こちらの椅子にお掛けください。すぐにお白湯と温かいタオルをお持ちします」
婦人を暖炉の前のテーブルへと案内し、濡れた外套を預かる。
温かいタオルで泥を拭い、白湯を口にした婦人は、ようやく強張っていた表情を緩めた。
「ありがとうございます。生き返る心地ですわ。私、マルガレーテと申します」
「エレノアと申します。マルガレーテ様、ご逗留は何日ほどのご予定でしょうか」
宿帳を開いて差し向けると、マルガレーテは羽ペンを手に取り、少し迷うように視線を宙に彷徨わせた。
「……実は、娘を待っているのです。娘が、王都から帰ってくるはずなのです」
その言葉が落ちた瞬間、エレノアの胸の奥を、かすかに甘い香りがくすぐった。
鍋の底で焦げた砂糖のほろ苦さ、温められた林檎からにじみ出る酸味、そして石窯から漂うパイ生地の香ばしいバター。
幼い子供が母親の膝元で吸い込むような、幸福な記憶の匂いだった。
だが、その香りの底には、ひどく冷たく湿った、土の匂いが混ざり合っていた。
胸の奥を刺すような冷気とともに、冷たく重い土の匂いがエレノアの喉を締めあげる。
待たれている娘の呼吸は、すでにこの世のどこにも響いていない。
遠い王都の冷たい石畳の下で、永遠の静寂に呑まれてしまったのだと、胸の痛みが残酷に告げていた。
エレノアは指先を強く握りしめて動揺を押し込め、穏やかな微笑みを崩さずに尋ねた。
「お嬢様と、この宿で待ち合わせをなさっているのですか」
「ええ。娘のセリアは、王都の大きな商家へ仕立物の見習いとして奉公に出しておりましたの。手紙で『冬が終わる前に、一度里帰りをする』と知らせてくれたのです。この宿は、私の村へ向かう街道の唯一の宿ですから……ここで待っていれば、必ず会えるはずだと思いまして」
マルガレーテは手提げ籠から、丁寧に布で包まれた分厚い革表紙のノートを取り出した。
表紙には、稚拙な飾り文字で『林檎のパイとお菓子の手帖』と刻まれている。
「セリアは、私が焼く林檎のパイが何より大好物でしたの。王都へ行く前、この手帖に私のレシピを一所懸命に書き写していきました。『王都で寂しくなったら、この手帖を見てお母さんの味を思い出すね』と笑って……」
マルガレーテはノートの角を愛おしそうに指先でなぞった。
「けれど、秋口から手紙が途絶えてしまって。商家の旦那様からは『セリアは急な病で仕事を辞め、療養に出た』とだけ手紙が届きましたの。でも、あの子が私に一言も告げずに姿を消すはずがありません。きっと、私を驚かせようと、不意に帰ってくるに違いないのです」
自らを必死に納得させようとする悲痛な響きを帯びていた。
マルガレーテ自身も、心のどこかで真実に気づいているのかもしれなかった。
病に倒れ、帰らぬ人となった娘の影を打ち消すために、彼女はこの厳しい冬の峠を越えて、奇跡を信じてやってきたのだ。
「……セリア様は、お母様のパイが本当にお好きだったのですね」
「ええ。酸味の強い紅玉を薄く切って、シナモンと蜂蜜でじっくり煮詰めてね。生地には冷たいバターを折り込んで、何重にも層を作るのです。焼き上がりに杏のジャムを塗ると、宝石のように輝いて……あの子はいつも、目を丸くして喜んでくれましたわ」
マルガレーテは懐かしそうに目を細めたが、やがてその瞳に涙の膜が張った。
「私は……あの子に、十分なことをしてやれませんでした。家が貧しいばかりに、あんな遠い王都へ奉公に出してしまって。寂しい思いばかりさせてしまったのではないかと、そればかりが悔やまれてならないのです」
擦り切れた手帖の表紙を握りしめるマルガレーテの指先が、白く強張っていた。
絞り出された吐息には、取り戻せない歳月への痛みがにじんでいる。
エレノアはそっと歩み寄り、その冷えた指先を自らの両手で包み込んだ。
「今夜は冷え込みます。お部屋にご案内いたしますね。温かいものを召し上がって、身体を休めてください」
階段を上がるのが困難なご婦人のために、本来は私室である一階の小部屋に急遽ベッドを設え、マルガレーテを案内した。
湯たんぽと温かいスープを届けた後、エレノアは一人、薄暗くなった厨房へと戻った。
宿の地下倉庫には、前の住人である祖母マーサが秋に収穫し、籾殻の中に保存していた冬越えの紅玉が、まだいくつか残っていたはずだった。
エレノアはランプを手に地下へと降りる。
木箱の中から小ぶりだが実の引き締まった紅玉を五つ、エプロンに包んで持ち上がった。
皮を剥くと、みずみずしい果汁と、鮮烈な林檎の香りが立ち上る。
エレノアは包丁を動かし、林檎を均等な厚さに切り揃えていく。
銅鍋に林檎を敷き詰める。
蜂蜜とわずかな塩、そしてシナモンの粉を振りかけて、とろ火にかける。
そのときだった。
トントン、と。
誰も触れていないはずの調理台の上で、木べらが小さく跳ねるような気配がした。
エレノアが見つめると、調理台の脇に置かれていた、マルガレーテが忘れていった手帖が、風もないのにハラリと音を立てて開いた。
開かれたのは、一番最後の頁だった。
そこには、震えるような細い文字で、書き殴られたような追記が残されていた。
『お母さんへ。
王都の冬はとても寒いです。
でも、つらいときはいつも、お母さんがパイを焼いてくれたときの、あの温かい台所の匂いを思い出しています。
私はお母さんの子供に生まれて、本当に幸せでした。
どうか私のことで泣かないで。
お母さんの焼くパイは、世界で一番甘くて、温かいです』
追記の端には、小さな押し花、王都の道端に咲くような、黄色い野菊の花びらが一枚、貼り付けられていた。
銅鍋の中から、パチパチと甘い煮汁が爆ぜる音がする。
芳醇で、どこまでも優しい林檎の香りが湧き上がった。
エレノアの頬を、目に見えない誰かの柔らかな髪が、ふわりとなでていく。
エレノアは小麦粉に冷たいバターを刻み入れた。
指先で手早く練り上げて生地を作る。冷たい地下室で何度か折り込んでは休ませ、何重にも層を重ねていく。
祖母から教わったパイの焼き方に、手帖に記されたマルガレーテの工夫を重ね合わせる。
天板に生地を敷き、煮詰めた林檎を美しく並べる。
編み目状の生地を被せて、石窯の奥へと滑り込ませた。
折り込まれた冷たいバターが熱に溶け、生地の層を押し広げていく微かなパチパチという音が響く。
薪の爆ぜる熱の中で、パイが香ばしい黄金色に色づいていく。
香ばしいバターと甘酸っぱい林檎の香りが、厨房を越えて、宿の廊下、そして客室へと満ちていった。
翌朝。
一階の広間に降りてきたマルガレーテは、漂う甘い香りに足を止め、目を見張った。
「この匂いは……」
「おはようございます、マルガレーテ様」
エレノアは焼き上がったばかりの、湯気立つ林檎のパイをテーブルの中央へと置いた。
表面には煮詰めた林檎のシロップが塗られ、朝日を浴びて琥珀色の宝石のように輝いている。
「差し出がましいこととは存じましたが……セリア様が愛した味を、お母様にもう一度召し上がっていただきたくて、焼いてみました」
マルガレーテは震える手でフォークを手に取り、一切れのパイを口へと運んだ。
サクリと、繊細な層が崩れる心地よい音。
口いっぱいに広がる、甘酸っぱい紅玉の果汁と、シナモンの温かな香り。
そして、奥底から広がる、どこか懐かしい蜂蜜の甘み。
「あ……ああ……」
マルガレーテの瞳から、大粒の涙がとめどなくあふれ出した。
彼女は口元を押さえ、震える肩を小さくすぼめて泣いた。
「セリアの……セリアの味ですわ。あの子が、私のために作ってくれた、あのときの味……」
エレノアは昨夜開かれた手帖を、そっとマルガレーテの前に差し出した。
最後の頁に書かれた娘の最期の言葉を読んだマルガレーテは、手帖を胸に強く押し当て、声を詰まらせて嗚咽した。
「セリア……! ごめんね、気づいてあげられなくて……! でも、ありがとう……ありがとう……!」
誰もいない広間の隅で、窓辺のレースのカーテンが、春を告げる微風を孕んだかのように、柔らかくふわりと膨らんだ。
甘い林檎の香りは、静かに、しかし確かに、母の胸の痛みを包み込み、癒していった。
その日の昼前、マルガレーテは宿を後にした。
その表情からは、昨日のような痛々しい焦燥は消え失せ、深い哀しみの中にも、確かな慈愛と誇りが満ちていた。
「エレノア様、本当にありがとうございました。私、村へ帰ります。あの子が誇りに思ってくれたこの手で、また村の子供たちに、美味しいお菓子を焼いてあげようと思います」
「はい。どうかお元気で、マルガレーテ様」
去りゆくマルガレーテの手には、手帖が大切に抱えられていた。
街道の先へ歩んでいくその背中を、柔らかな冬の陽光がどこまでも優しく照らしていた。
エレノアが扉を閉めようとしたとき、宿の前を通りかかった村の荷馬車の御者が、親しげに声をかけてきた。
「よう、お嬢さん! さっき騎士団の副団長様が、峠の巡回から戻ってくるのを見かけたぜ。『夕星亭の明かりは点いていたか』って、珍しく気にしてたようだったが、何かあったのかい?」
御者の言葉に、エレノアは小さく微笑んだ。
「いいえ。何もありませんでしたわ。ただ……今夜も、温かいお茶を淹れて待っていようと思います」
空を見上げると、厚い雲の切れ間から、澄み渡った淡い青空がのぞいていた。




