第3話「騎士と減りゆく杯」
夜の冷気が広間の足元を這い、暖炉の炎が微かに揺らめいた。
エレノアはカウンター越しに、入口に立つ青年を静かに見つめる。
青年は黒い騎士外套を深く羽織り、肩には細かな雪の粒が白く光っていた。
腰に帯びた細身の長剣は飾り気がなく、柄の革紐には使い込まれた手の跡が深く刻まれている。
広間の中央へと進み出た足取りには、一切の迷いがない。
無駄な物音すら立てない。
帽子を脱いだ青年の髪は、短く刈り揃えられた深い濡れ羽色をしていた。
彫りの深い顔立ちと、冷たい刃を思わせる灰青色の双眸。
若くして辺境警備の重責を担う者特有の、研ぎ澄まされた威圧感が全身から漂っている。
「いらっしゃいませ。どうぞ、暖炉のお近くの席へ」
エレノアが穏やかな声で頭を下げると、青年はわずかに視線を動かし、帳簿と彼女の手元を一瞥した。
「……宿を探しているわけではない」
低く、どこか乾いたバリトンの響きだった。
青年はカウンターの端、暖炉の火が直接届かない壁際の席へと向かう。
背もたれの硬い木製椅子を静かに引いた。
長剣を腰から外し、壁際に立てかける動作にも、一切の淀みがない。
「酒はあるか」
「申し訳ございません。当宿には、強い酒精のものはまだ仕入れておりませんで……。麦酒か、あるいは温かいハーブの紅茶でしたら、すぐにご用意できますが」
青年は少しだけ眉を寄せ、椅子の背に深く体を預けた。
「……なら、紅茶を頼む。茶葉は何でもいい」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
エレノアは厨房へ下がり、棚から陶器の壺を取り出した。
中には、祖母マーサが庭で乾燥させていたカモミールと薄荷の葉が詰まっている。
銅の小鍋に井戸水を満たし、炉火の上にかける。
やがて細かな泡が底から立ち上り始めた。
温めた白磁のポットに茶葉を落とし、沸き立つ湯を注ぐ。
立ち上る澄んだ蒸気とともに、林檎に似た甘い芳香と、爽やかな草の匂いが厨房を満たしていく。
蒸らし時間を待つ間、エレノアはカウンターの隙間から、青年の姿をそっと窺った。
青年は外套を脱ごうともせず、硬い革の手袋を外してカウンターの上に置いていた。
露わになったその手は、武骨で大きく、指の関節には無数の古い傷跡と、固く盛り上がった剣だこが見て取れた。
その視線は、広間の片隅に据えられた空席の丸テーブルへと、じっと注がれている。
そのときだった。
エレノアの胸の奥に、ざらりとした冷たい砂を素手で握りしめたような、鈍い痛みが走った。
香りが届く。
先ほど淹れたハーブの香りではない。
乾いた赤土と、焼け焦げた鉄、そして冷たい風に吹き晒された荒野の匂い。
青年の背後に重なる影の存在を、エレノアは確かに感じ取っていた。
恋人でも家族でもない。
背中を預け合い、同じ泥にまみれ、死線を共に潜り抜けてきた、若き戦友の気配だった。
胸を衝くような無念と、果たされなかった約束の重みが、青年の広い背中に重たくのしかかっている。
ポットから茶漉しを通してカップへと琥珀色の液体を注ぐ。
エレノアはトレイを持ってカウンターへと戻った。
「お待たせいたしました。カモミールと薄荷の紅茶です」
「……すまない」
青年は短く礼を告げ、湯気の立つカップに指を添える。
熱を確かめるようにしばらくカップを見つめていたが、やがて静かに口をつけ、ゆっくりと喉を鳴らして飲み干していく。
張り詰めていた青年の肩の線が、湯気とともにわずかばかり緩んだように見えた。
「お気に召しましたでしょうか」
「……悪くない。腹の底が温まる」
青年はカップをソーサーに戻す。
自らの懐へと手を入れた。
取り出されたのは、表面に無数の凹みと引っかき傷がついた、古い銀の携帯酒瓶だった。
蓋を回して開けると、鼻を突くような強い蒸留酒の香りが、広間にふわりと漂う。
「持ち込みを咎めるなら、今すぐ出るが、宿主」
「いいえ、構いません。よろしければ、小さなグラスをお使いになりますか」
エレノアが戸棚から透明な足つきの小グラスを差し出す。
青年はわずかに驚いたようにまばたきをした。
何も言わず、銀の瓶を傾けて、グラスの八分目まで透明な蒸留酒を注いだ。
だが、青年はその酒を口にしようとはしなかった。
グラスを、自分が座る席のすぐ隣の空席の丸テーブルの端へと、静かに押しやったのだ。
「……飲まれないのですか」
エレノアの控えめな問いに、青年は自らの空になった紅茶のカップを見つめたまま、低く答えた。
「俺の分ではない」
「お連れ様が、いらっしゃるのですか」
「……来ない。来るはずがない」
青年の唇が、苦々しく結ばれた。
灰青色の瞳に、深い夜の闇のような暗い影が落ちる。
「あいつとは、この街の詰所で合流して、一緒にこの宿で一番強い酒を飲む約束をしていた。……だが、俺だけが戻ってきた。それだけの話だ」
それ以上の言葉を、青年は口にしなかった。
エレノアもまた、それ以上問い詰めることはしなかった。
「冷たい風が入りますから、扉の閂を下ろしてまいりますね」
エレノアはカウンターを出て、玄関の重い木製扉の閂を掛けた。
広間の隅のランプの芯を少しだけ下げる。
広間は暖炉の橙色の明かりに包まれ、静寂が満ちていく。
壁の振り子時計が、コチコチと規則正しい時を刻む音だけが響いていた。
青年は肘をカウンターにつき、手のひらで顔の半分を覆うようにして、動かなくなった。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
戦場から戻って以来、まともな睡眠を取れていなかったのだろう。
眉間に刻まれた険しい皺が、眠りの中でわずかに解けていた。
エレノアは足音を忍ばせる。
奥の部屋から厚手の羊毛の毛布を持ってくると、青年の広い肩へとそっと掛けた。
青年は身じろぎひとつせず、深い眠りに沈んでいる。
そのとき、エレノアの視線が、隣のテーブルへと吸い寄せられた。
青年の隣の席。
誰も座っていない椅子の前に置かれた、あの足つきの小グラス。
先ほど青年が八分目まで注いだはずの蒸留酒が、明らかに減っていた。
グラスの半分ほどの位置まで、液面が静かに下がっている。
こぼれた跡など、どこにもない。
木製のテーブルの表面は乾ききっており、滴一つ落ちていなかった。
誰もいないその席の空気だけが、微かに揺らいでいた。
そこに腰掛けた誰かが、満足そうに喉を鳴らし、杯を置いたかのように。
立ち上る蒸留酒の香りに混ざって、微かに笑い声を帯びた男の息遣いが、風のようにエレノアのうなじをなでて通り過ぎた。
恐怖はなかった。
親友の隣で酒を酌み交わすという約束を果たすために、その魂はこの場所へと辿り着き、眠る友の傍らに腰を下ろしている。
夜が明ける直前、青年の身体が小さく跳ねた。
肩から落ちかけた毛布を反射的に手で押さえる。
青年は鋭い視線で周囲を見回した。
「……っ」
「おはようございます。よく眠れましたか」
厨房から温かい白湯の入ったカップを持って現れたエレノアに、青年は自らに掛けられていた毛布を見つめた。
急激に吸い込んだ朝の冷気に、青年は喉を詰まらせるように小さく咳き込んだ。
「……俺は、眠っていたのか」
「はい。とても深く眠っていらっしゃいましたよ」
「……ばかな。俺が、人前でここまで油断するなど……」
青年は信じられないといった様子で自らの額を押さえ、短く息を吐き出した。
ふと視線を隣のテーブルへと向ける。
そこには、底にわずか一滴だけ酒を残し、綺麗に空になったグラスが置かれていた。
青年の息が止まり、グラスの縁へとそっと指先を伸ばす。
硝子の表面に残るかすかなぬくもりに触れた瞬間、青年の指がかすかに震えた。
「……あいつが、飲んだのか」
「私には、何も見えませんでした。ただ、とても穏やかな風が、あなたのお隣を吹き抜けていきました」
エレノアの静かな返答に、青年は唇を噛み締め、うつむいた。
その肩が、微かに震えている。
だが、青年はそれ以上何も言わず、立ち上がると、無骨な手で銀貨を一枚カウンターの上に置いた。
「……辺境騎士団副団長、レオン・ヴァルハイトだ」
青年は長剣を腰に戻し、深く外套の襟を立てた。
「また、来る」
「はい、レオン様。いつでも温かいお茶をご用意してお待ちしております」
レオンは背を向け、大股で玄関へと向かった。
扉が開かれ、朝の冷涼な青い光が差し込む中、彼が振り返ることはなかった。
だが、その歩みは昨夜入ってきたときよりも、わずかに力強さを取り戻しているように見えた。




