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夕星亭の追放令嬢~死者を待つ辺境の宿で、不器用な騎士様と温かいスープを~  作者: 黒崎 隼人


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第2話「窓辺に咲く白杜鵑草」

 翌朝、カーテンを開ける。

 白銀に染まった山肌が朝陽を浴びて淡く輝いていた。

 夜の間に降った雪は街道を覆い隠している。

 見渡す限りの静寂が広がっていた。

 エレノアは朝の冷気を吸い込む。

 昨夜の残りのスープを温め直して、トーマスの部屋へと運んだ。

 木製の扉を三度、静かに叩く。


「おはようございます、トーマス様。朝食をお持ちいたしました」


「……ああ、おはよう。入っておくれ」


 扉を開けると、トーマスは昨夜と同じ姿勢で、窓辺の椅子に腰掛けていた。

 ベッドのシーツはほとんど乱れていない。

 彼が夜の多くをこの窓辺で過ごしたことがうかがえた。


「よく眠れましたでしょうか」


「ああ、おかげさまでね。昔のことを思い出していたら、いつの間にか朝になっていたよ」


 トーマスは穏やかに微笑む。

 エレノアがテーブルに置いた朝食に手を伸ばした。

 焼いた黒パンをスープに浸し、ゆっくりと噛み締める。

 その視線は、食事の間も時折、窓の外の雪道へと向けられていた。

 だが、その道を通る馬車も旅人も、影一つ見当たらない。

 それから、三日が過ぎた。

 トーマスは日中もほとんど部屋を出ず、ただ静かに窓辺の椅子に座り続けていた。

 エレノアが掃除や食事を運ぶたびに、彼は王都での昔話を聞かせてくれた。

 彼はかつて王都の下町で、小さな家具工房を営んでいたこと。

 不器用な自分を支えてくれた妻のエマは、花を育てるのが大好きな、底抜けに明るい女性だったこと。

 そして、どんなに貧しい暮らしの中でも、エマは毎朝、野の花を一輪テーブルに飾り、笑顔で彼を送り出してくれたこと。


「エマはね、白杜鵑草《しろほととぎす》という花が特に好きでね。秋の終わりに、山裾の岩場にひっそりと咲く、小さな白い花だよ。花びらに紫の斑点があって、決して派手ではないが、凛として美しい花だった」


 トーマスは愛おしそうに目を細めた。

 遠い空を見つめて言った。


「この宿の庭にも、昔はたくさん咲いていたそうだ。エマが昔、旅の途中でこの宿に泊まったことがあってね。『いつか二人で、あの白杜鵑草を見に行きましょうね』と、ずっと約束していたんだ」


 エレノアの胸の奥が痛む。

 祖母マーサの庭には、確かに手入れの行き届いていない枯れ草の中に、白杜鵑草の群生があった。

 今は雪の下に埋もれてしまっているが、春になれば再び芽吹くはずの場所だ。

 しかし、一週間が経過しても、エマという女性が宿を訪れる気配は一向になかった。

 麓の村へ買い出しに出かけた際、エレノアは村の古老にトーマスの名を出してみた。

 すると、古老は意外そうに眉を跳ね上げ、ため息混じりにこう告げたのだ。


「トーマスさんなら、知っているよ。二十年前に王都から移住してきた家具職人だ。だが……奥さんを待っているだって? そんなはずはない。エマさんは、二十年も前に流行り病で亡くなっているよ。トーマスさんは、奥さんの墓をこの村の丘に建てて、ずっと一人で暮らしてきたんだ」


 買い出しの荷物を抱えたまま、エレノアは立ち尽くした。

 亡くなっている。

 二十年も前に。

 宿へ戻る雪道を歩きながら、エレノアの頭の中は混乱で渦巻いていた。

 トーマスは記憶を失っているのだろうか。

 それとも、妻の死を受け入れられず、幻影を追い続けているのだろうか。

 宿に戻る。

 夕暮れの薄暗がりの中、エレノアは二階の客室へと上がった。

 ノックをして部屋に入る。

 トーマスはいつものように窓辺の椅子に腰を下ろしていた。

 夕日が差し込む部屋の中、老人の背中は、以前よりも小さく、脆く見えた。


「トーマス様」


 エレノアはトレイを抱えたまま、静かに呼びかけた。


「奥様は……まだ、いらっしゃらないのですか」


 残酷な問いだと自覚していた。

 だが、彼がこのまま冷たい部屋で誰かを待ち続け、衰弱していくのを見過ごすことはできなかった。

 トーマスはゆっくりと振り返り、エレノアを見つめた。

 その瞳には、狂気も混濁もない。

 深い澄み切った哀しみが宿っていた。


「……もう、来ているんだと思います」


 トーマスは、ぽつりと言った。


「本当は、最初からわかっていたんだ。エマがもう、この世のどこにもいないことくらい」


 老人の震える声が、静まり返った部屋に落ちる。


「二十年前、エマが病に倒れたとき、私は工房の借金を返すのに必死で、彼女の看病もろくにできなかった。エマが息を引き取る間際、私に何かを言おうとしていたのに……私は仕事に追われ、その手を握ってやることすらできなかった」


 トーマスは顔を覆った。

 絞り出すように言葉を継いだ。


「私はずっと悔やんでいた。エマは私を恨んで逝ったのではないかと。だから、エマが最後に残した手紙を、どうしても開けることができなかったんだ。もしそこに、恨み言が書かれていたら、私は生きていけないと思ってね」


 老人は懐から、黄ばんだ一通の封筒を取り出した。

 封蝋は固く閉ざされたままだ。

 幾度となく指先でなぞられたのだろう、羊皮紙の端は毛羽立ち、手擦れによって深く丸まっていた。


「だが、私ももう先が長くない。最後にエマと約束したこの宿に来れば、手紙を読む勇気が出るかもしれないと思ったんだ。……だが、駄目だった。やはり怖い。エマの言葉を見るのが、どうしても怖いんだ」


 老人の肩が、かすかに震えていた。

 そのときだった。

 ふわりと、柔らかな風が部屋の中を通り抜けた。

 窓は固く閉ざされているはずなのに、カーテンが微かに揺れる。

 閉ざされた窓の隙間から吹き込んだ風が、卓上の蝋燭の芯を揺らした。

 その風の底に、奇妙なものが混ざっていた。

 長い冬のあいだ木箱の奥で眠っていた毛布のような、ほの暗く乾いた温もりの気配。

 そして、かすかに鼻腔をくすぐる、歳月を経てひび割れたラベンダーの花粒が放つ淡い渋み。

 決して鮮やかな花の香りではなく、何年も暗闇に閉じ込められていた記憶の蓋が、軋みながら開いたときの空気だった。

 トーマスの座る椅子の背もたれに、誰かの手がそっと触れたかのように、柔らかな窪みができた。

 誰も触れていない丸テーブルの上の木製の一輪挿しから、カサリと微かな音が響いた。

 二人の視線が、テーブルへと向かう。

 昨夜まで何もなかったはずの一輪挿しに、一輪の白杜鵑草が差されていた。

 冬の寒さの中では決して咲くはずのない、瑞々しい露を宿した、白く可憐な野の花。

 その花びらが、ゆっくりと開いた。

 トーマスは目を見開いた。


「エマ……? お前なのか……?」


 その姿は目には映らない。

 耳を澄ませても、声は届かない。

 けれど、一輪挿しに寄り添う白い花びらが、静かに震えていた。

 エレノアはそっと歩み寄り、トーマスの隣にひざまずいた。


「トーマス様。奥様は、あなたを恨んでなどいません。もし恨んでいたなら、こんなにも温かな香りを残して、あなたの隣に寄り添うはずがありません」


 エレノアにはわかる。

 この部屋に満ちているのは、怒りでも嘆きでもなく、ただひたすらに深い、相手を思いやる慈しみだけだった。


「手紙を、お読みになってください。奥様はずっと、あなたがその封を開けてくれるのを待っていらしたのです」


 トーマスは震える指先で、擦り切れた封筒を見つめた。

 あふれそうになる涙をまばたきで押し戻す。

 意を決したように、親指で封蝋を割った。

 中から現れたのは、色褪せた便箋だった。

 震える手でそれを広げると、そこには不揃いだが温かみのある文字が並んでいた。

『あなたへ。

 毎日遅くまで働いてくれて、本当にありがとう。

 私のために無理をさせてしまって、ごめんなさい。

 あなたと過ごした日々は、私の人生のすべてでした。世界で一番、幸せでした。

 もし私が先に逝ってしまっても、どうか自分を責めないで。

 あなたの手が作る家具は、どれも温かくて大好きでした。

 いつかあなたがこちらへ来るときまで、私は白杜鵑草の花を摘んで待っています。

 愛しています』

 長年封じられていた古い羊皮紙が、こぼれ落ちた雫を吸って黒い斑点へと変わっていく。

 トーマスは声を出さなかった。

 ただ、硬く突っ張っていた鎖骨のあたりが小刻みに波打ち、節くれだった両手の親指が、擦り切れた羊皮紙の端を破らんばかりに強く押し当てられていた。

 暖炉の爆ぜる音が止み、窓枠の隙間から差し込んだ薄暮の光が、老人の曲がった背中の埃を、静かに白く浮かび上がらせていた。

 テーブルの上の一輪挿しの花は、いつの間にか、二十年前に押し花にされたかのような、乾いた花びらへと姿を変えていた。

 翌朝。

 空は雲一つない青空が広がり、澄み渡った冬の光が街道を照らしていた。

 宿の玄関先で、トーマスはすっきりと晴れやかな顔で立っていた。

 背筋は伸び、その瞳には失われていた生気が力強く宿っている。


「本当にお世話になったね、お嬢さん。おかげで、ようやく肩の荷が下りたよ」


「もう、ご出発されるのですか」


「ああ。村の工房に戻って、もう一度、家具を作ってみようと思うんだ。エマが好きだと言ってくれた、温かい家具をね。彼女の待つ場所へ行くのは、もう少し先にするよ」


 トーマスは嬉しそうに笑い、エレノアに深く頭を下げた。


「あの部屋を用意してくれて、本当にありがとう」


「お気をつけて。いつでも、温かいスープをご用意してお待ちしております」


 エレノアが見送る中、老人は軽やかな足取りで雪解けの道を歩き出した。

 その背中は、もう迷い子の老人ではなく、確かな明日を見据えた職人の姿だった。

 トーマスの姿が見えなくなるまで見届けた後、エレノアは二階の客室へと掃除に向かった。

 窓を開けて澄んだ空気を通す。

 シーツを剥がそうとベッドに近寄ったとき、彼女は足を止めた。

 綺麗に整えられた枕の上に、何かが置かれていた。

 そっと手を伸ばす。

 それは、使い込まれて細かな傷がたくさんついた、古い銀の結婚指輪だった。

 その隣には、乾燥した白杜鵑草の花びらが一枚、そっと添えられていた。

 老人が忘れていったのではない。

 ここに置いていくことで、彼は過去の後悔に別れを告げ、前を向いて歩き出したのだ。

 エレノアは指輪を手のひらで包み込み、そっと胸に当てた。

 銀の輪を包み込む指先へ、金属の冷たさを越えて、かすかな温もりが伝わってくる。

 去り逝った魂と言葉を交わす術は持たない。

 それでも、残された者が過去にそっと触れ、再び前を向くための止まり木として、この宿はある。

 すべてを失って流れ着いたこの場所で、果たすべき役目があるのかもしれない。

 エレノアは指輪をそっとエプロンのポケットに収め、窓の外を見上げた。

 雪解け水が屋根の軒先から滴り、陽光を反射してきらきらと輝いていた。

 その日の夕暮れ。

 仕事を終えたエレノアがカウンターで帳簿を開いていると、再び玄関のベルが、澄んだ音を立てて鳴り響いた。

 入ってきたのは、漆黒の外套に身を包んだ、長身の青年だった。

 腰には無骨な剣を帯び、冷徹さを湛えた灰青色の瞳が、薄暗い広間を鋭く射抜いていた。

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