第1話「妻を待つ老人」
凍てつく井戸水に浸した麻布を絞る。
冷気が指の節々を刺すように痛んだ。
ひび割れた皮膚のひどい痛みが、忘れていた記憶を唐突に引きずり出す。
かつてこの両手には、高価なアーモンドオイルが丁寧に塗り込まれていた。
それを施す侍女の滑らかな手付き。
自らの白く柔らかな指先。
その白さを、元婚約者であるジュリアンは、貴族の義務を果たしている証だと、冷ややかな眼差しで告げていた。
夜会の広間を冷やすために置かれた巨大な氷塊が、ゆっくりと溶けていく水音。
それが今、目の前にある凍えた水桶の波紋と重なり合う。
エレノアは息を白く吐き出し、赤く染まった自らの両手を見つめた。
爪の間に残る灰の汚れを爪先で掻き出しながら、小さく息を整える。
ここは王都から馬車で一月あまり揺られた先にある、山あいの辺境の村だった。
見渡す限り、灰色の岩肌と痩せた針葉樹が連なる。
夜の帳が下りる前から、刺すような寒風が吹き下ろす。
その街道の外れに佇む、二階建ての木造建築が、エレノアの新たな住処だった。
宿の屋号は『夕星亭』。
かつてこの地で一人、旅人たちを迎えていた祖母マーサが遺した小さな宿屋である。
豪華なシャンデリアの下、着飾った貴族たちに囲まれた夜会の広間で、ジュリアンが冷たく告げた声が今も鼓膜にこびりついている。
「エレノア、君との婚約を破棄させてもらう。僕には、君よりも心から愛する女性ができたのだ」
隣に寄り添う男爵令嬢の勝ち誇ったような視線。
周囲の嘲笑を孕んだざわめき。
実家の伯爵家は、有力貴族との結びつきを失ったエレノアを庇うどころか、体面を汚した厄介者として即座に除籍し、この最果ての地へと追放した。
持たされた荷物は、トランク一つと、祖母の遺品である錆びかけた真鍮の鍵だけだった。
費やした歳月の重みこそが、人を縛りつける。
ハミルトン家のために尽くした五年間。
冷え切ったジュリアンの視線に気づきながらも、注ぎ込んだ祈りや労苦が無に帰すことを恐れ、目を背け続けていた。
過去にしがみつく心は、歩き出す足を絡め取る泥のようなものだ。
エレノアは雑巾を持ち直し、埃の積もったオーク材の床を力強く拭き上げる。
悔し涙を流す時間は、とうに過ぎていた。
泣いたところで、荒れた床が綺麗になるわけでも、冷え切った暖炉に火が灯るわけでもない。
立ち上がり、腰の痛みに小さく顔をしかめながら、一階の広間を見渡す。
長年放置されていた館内は、どこもかしこも煤と埃にまみれていた。
煙突に鳥が巣を作っていたため煙が広間に逆流し、涙を流しながら煤を掻き出した。
井戸水は一度煮沸して銀の匙を浸し、変色がないか確かめてから恐る恐る口に含んだ。
近隣の木こりの妻に頼み込んで古い藁を焼き、新しい乾燥藁をトコジラミ除けの苦艾と共にマットレスに詰め直した。
三日間にわたる過酷な労働の末、ようやく木肌に落ち着いた艶が戻りつつあった。
広間の中央に据えられた大きな暖炉には、近隣の木こりから譲り受けた乾燥した薪を組み、火打ち石で火を移す。
橙色の炎がパチリと乾いた音を立てて木肌を舐める。
冷え切っていた広間に柔らかな温もりが広がり始めた。
エレノアは厨房へ向かった。
真鍮のやかんを火にかける。
鉄鍋で根菜と干し肉のスープを煮込み始める。
冷たい水が熱を帯び、食材からにじみ出た油と混ざり合う微かな音が響く。
質素だが、立ち上る湯気とハーブの香りが、凍えた身体をわずかに解きほぐしてくれた。
視線を壁の古びた振り子時計に向ける。
長針はすでに夜の八時を回っていた。
こんな山奥の宿に、初日から客が訪れるはずもない。
明日は二階の客室の寝具を干そうと考えながら、エレノアがエプロンで手を拭いた、そのときだった。
からん、と。
玄関の扉に吊るされた真鍮の呼び鈴が、静かな夜の空気を震わせた。
エレノアはすぐさま呼吸を整え、広間へと小走りで向かう。
蝶番が悲鳴を上げ、木製の重い扉がゆっくりと内側へ押し開かれた。
隙間から刺すような夜風と、白いみぞれが吹き込んでくる。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
仕立ての古い、すっかり擦り切れた外套をまとい、手には使い古された革の鞄を提げている。
つばの広い帽子の下からのぞく髪は雪のように白い。
刻まれた深い皺が、歩んできた年月の過酷さを物語っていた。
老人は寒さに肩を震わせ、頼りなげな眼差しで、ぽつりと灯るランプの光を見つめている。
「……こんばんは。宿を、お借りしたいのだが」
かすれた、しかし静かな声だった。
エレノアは姿勢を正し、温和な微笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。外はさぞ寒かったでしょう。どうぞ、暖炉のお近くへお入りください」
老人は安堵したように息を吐き出す。
重い足取りで広間へと足を踏み入れた。
エレノアは彼の手から濡れた外套と帽子を預かった。
水滴を払って壁の真鍮のフックにかける。
老人は暖炉の前の長椅子に腰を下ろす。
かじかんだ両手を炎にかざし、じっとその温もりを確かめていた。
「温かいスープをお持ちしますね。少しお待ちください」
厨房から木製の椀に注いだスープと、薄く切った黒パンを盆に乗せて運ぶ。
老人は椀を両手で包み込むようにして持った。
立ち上る湯気を吸い込み、震える手で木のスプーンを口へと運んだ。
「……美味い。身体の芯に染み渡るようだ」
「お口に合って良かったです。ずいぶんと遠くから歩いてこられたのですか」
「ああ。王都から街道をずっと、歩いてきた。足が悪くてな、ずいぶんと時間がかかってしまった」
老人は静かに微笑み、スープをゆっくりと喉の奥へ流し込んだ。
その穏やかな横顔を見つめていたエレノアの鼻腔の奥に、突如として冬の冷気とは相容れない匂いが強烈にこびりついた。
梅雨時に乾ききらなかったリネンを箪笥の奥から引っ張り出したときのような、陽に干した古い寝具の匂い。
そして、萎れたラベンダーの乾いた甘さ。
強烈な異物感が肺腑を満たし、喉が締め付けられるような窒息感を覚える。
エレノアは厨房の壁に手をつき、荒い息を吐き出した。
なぜ見ず知らずの他人の妻の匂いが、自分の身体を内側から侵食するのかがわからない。
祖母が亡くなる直前、エレノアに告げた言葉がよぎる。
お前の心には、扉を開けた人が本当に求めている誰かの姿が、風の匂いのように届くはずだからね。
目の前に座る老人の背後に、淡い光の粒子が寄り添うように漂っている。
老人の輪郭のすぐそばに、陽だまりで干した毛布のような、かすかな温もりが寄り添っている。
萎れたラベンダーの甘さがふわりと鼻先を掠め、静かに老人の肩を包み込んでいた。
疑う余地などなかった。
喉の奥を締めつけるような熱い疼きとともに、この老人が長年連れ添った最愛の妻を、魂の底から待ち焦がれていることだけが、肺腑を突き刺す乾いた甘さと重なって流れ込んでくる。
けれど、漂う香りはあまりにも儚く、それ以上の記憶を形作ることはない。
妻がどこにいるのか、なぜ離れ離れになっているのか、そして何を伝えようとしているのかは、濃密なラベンダーの余韻の中に溶け去ったままだった。
老人は最後の一滴までスープを飲み干す。
ふう、と小さく息をつき、カウンターに置かれた宿帳に視線を向けた。
「すまないが、部屋を一つ頼めるだろうか」
「かしこまりました。二階の部屋が空いております。日当たりの良い南向きの部屋と、街道を見渡せる東向きの部屋がございますが」
老人は少しの間、手元を見つめて考え込むように沈黙した。
顔を上げて静かに告げた。
「……できれば、窓のある部屋を頼みたい。東向きの、街道がよく見える部屋がいい」
「東の部屋ですね。ご用意いたします」
エレノアは羽ペンにインクを浸す。
宿帳を開いて老人に差し向けた。
「こちらにお名前のご記入をお願いいたします。それから……何日ほどお泊まりのご予定でしょうか」
老人は節くれだった指で羽ペンを受け取った。
丁寧な筆跡で『トーマス』と書き記す。
ペンの動きを止め、窓の外の深い闇をじっと見つめた。
その瞳には、深い哀惜と、祈るような光が宿っていた。
「妻が来るまで」
トーマスは、静かに言った。
「妻が来るまで、泊めてもらいたいのだ」
「奥様と、ここで待ち合わせをされているのですか」
エレノアが穏やかに尋ねると、老人は寂しげに眉尻を下げ、うなずいた。
「ああ、そうだ。ここで落ち合う約束をしている。……足の悪い私のほうが、先に着いてしまったようだがね」
老人の口調には、嘘をついているような気配は微塵もなかった。
だが、エレノアの胸をなでていくラベンダーの香りは、あまりにも微かだった。
遠い過去の残照のように儚かった。
「承知いたしました。お部屋へご案内いたしますね」
エレノアは真鍮の燭台を手に取り、トーマスの鞄を持って階段を上がった。
ギィと古い木が軋む音を響かせながら、二階の突き当たりにある部屋の扉を開ける。
部屋の中は冷え切っていた。
木製の簡素なベッドが一台。
小さな丸テーブル。
そして東の空を望む硝子窓の前に、背もたれの高い椅子が一客置かれている。
エレノアは手早く暖炉に火を熾し、毛布を整えた。
「お湯を入れた陶器の湯たんぽをお持ちしますね。今夜は冷え込みますから、暖かくしてお休みください」
「ありがとう、お嬢さん。親切にしてもらって、本当に助かるよ」
トーマスは椅子に深く腰を下ろした。
窓の外を見つめた。
雪混じりの風が窓を叩く音が、静まり返った部屋に小さく響いている。
エレノアは一礼して部屋を出ようとした。
扉の取っ手に手をかけたところで、足を止めた。
振り返ると、薄暗い部屋の窓辺で、椅子に座るトーマスの隣に、もう一脚の椅子が置かれているのが見えた。
丸テーブルを挟んだ、向かい側の空間。
そこには誰も座っていない。
だが、暖炉の火に照らされたその空席の前に置かれた小さな木製の一輪挿しに、先ほどまでは差していなかったはずの、白い野の花が一輪、影のように揺れているのが見えた。
まばたきをすると、その花は消えていた。
ただの埃か、光の悪戯だったのだろうか。
エレノアはそっと扉を閉めた。
階下に戻り、冷たい水で食器を洗い終えた後も、トーマスの横顔と、あの微かなラベンダーの香りが頭から離れなかった。
人里離れたこの宿を、なぜ二人は約束の場所に選んだのか。
そして、老人が胸に抱く切なさが、どうしてこれほど生々しく自らの胸を打つのか。
爆ぜる薪を見つめながら、エレノアは小さく息を吐いた。
答えを返す者はなく、山から吹き下ろす夜風が、宿の屋根を静かに軋ませていた。




