第10話「夕暮れの星が導く場所」
新緑の季節が訪れ、夕星亭の庭は瑞々しい青葉と野花に彩られていた。
エレノアは裾をたくし上げたエプロン姿で、宿の庭の片隅にしゃがみ込んでいた。
小さな移植用の鏝を使い、黒々とした柔らかな土を掘り起こしていく。
雪解けの後に芽吹いていた白杜鵑草の若葉は、初夏の陽光を浴びて青々と育ち、秋の開花に向けて葉を広げていた。
かつてトーマスが愛し、彼の亡き妻エマが愛した花。
エレノアはその周囲の雑草を丁寧に抜き、井戸から汲んできた新鮮な水を根元へと注いだ。
土の湿った匂いと、草の青い香りが心地よく鼻腔をくすぐる。
額の汗を手の甲で拭いながら、エレノアはふと自らの手のひらを見つめた。
かつて王都でサロンの貴婦人たちに見せていた、白く滑らかな手ではない。
水仕事で荒れ、小さな傷があり、土で汚れた手。
だが、今のエレノアは、この自分の手を誇らしく思っていた。
この手でパンを焼き、傷の手当てをし、旅人たちに温かいスープを運んできたのだ。
(私は、もう過去に囚われてはいない)
ジュリアンに切り捨てられたあの夜会の日、エレノアの魂もまた、あの豪華な広間で一度死んでいたのかもしれなかった。
誰からも必要とされないという絶望の淵に立っていた。
けれど、トーマスを見送り、マルガレーテの涙を拭い、リリィの背中を抱きしめる中で、エレノア自身もまた、生きていく力を取り戻していたのだ。
庭仕事を終え、井戸端で手を洗っていると、遠く街道の向こうから、規則正しい蹄の音が響いてきた。
白毛混じりの軍馬に乗って現れたのは、レオン・ヴァルハイトだった。
右肩の負傷は完全に癒え、軍務に復帰した彼は、以前よりも引き締まった精悍な空気をまとっていた。
だが、馬を宿の柵に繋ぎ、エレノアの姿を認めた瞬間、その冷徹な灰青色の瞳に、柔らかな光が灯るのをエレノアは見逃さなかった。
「お帰りなさいませ、レオン様」
エレノアがエプロンを払って出迎えると、レオンは鞍から革の袋を外し、静かに歩み寄ってきた。
「ただいま戻った、エレノア。……相変わらず、精が出るな」
「庭の白杜鵑草の手入れをしておりましたの。もうすぐ、綺麗な花を咲かせてくれそうです」
「そうか。……街の市場へ寄ってきた。美味そうな川鱒が手に入ったので、持ってきた」
差し出された袋を受け取ると、中には清流の香りを残した、見事な川鱒が二尾、濡れた笹の葉に包まれていた。
エレノアは顔をほころばせ、目を細めた。
「まあ、立派なお魚! 今夜はこれを香草焼きにいたしましょう。ちょうど庭のディルとタイムが摘み頃なのです」
「……ああ。君の料理なら、何でも美味い」
レオンは短く答え、どこか照れくさそうに視線を逸らした。
無骨な騎士のそんな不器用な仕草が、エレノアにはひどく愛おしく感じられた。
◆ ◆ ◆
夕暮れ時、夕星亭の厨房からは、香ばしいバターとハーブの香りが立ち上っていた。
熱した鉄鍋に川鱒を滑らせると、ジュァァという甲高い音とともに、にんにくとタイムの香りをまとった脂が弾け飛んだ。
皮目が狐色に反り返るのを待ち、手早く裏返す。
付け合わせのポトフからは、新じゃがいもと甘い若人参が煮崩れる直前の、とろりとした甘い香りが立ち上っていた。
広間のテーブルに料理を並べると、レオンは静かに席に着いた。
以前のように壁際の暗がりではなく、暖炉の光が届く中央の席に、彼とエレノアは向かい合って座っていた。
「いただきます」
レオンはナイフとフォークを手に取り、鱒の身を口へと運んだ。
香ばしい皮の食感と、ふっくらとした白身の繊細な甘みが広がると、彼の表情が目に見えて和らいだ。
「……美味いな。川魚特有の泥臭さが微塵もない」
「ハーブの香りをしっかり移しましたから。スープも召し上がってくださいね」
二人は他愛のない会話を交わしながら、静かに夕食を進めた。
騎士団の若手兵士たちの訓練の話、村の鍛冶屋の近況、そして庭に咲く花の話。
かつて王都の夜会で交わされていた、虚飾と探り合いに満ちた会話とは比べものにならない、穏やかで満ち足りた時間だった。
食事が終わり、エレノアが淹れたてのミントティーを運んできたとき、レオンは自らの手元を見つめたまま、ふと沈黙した。
広間に、静寂が降りる。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、二人の間に流れていた。
「……エレノア」
レオンが、低く厳かな声で呼びかけた。
その声音の重さに、エレノアは背筋を伸ばし、彼を見つめ返した。
「はい、レオン様」
「この宿の地下室の文字を……あれから何度も思い出していた」
レオンはカップの縁を指先でなぞりながら、苦渋に満ちた影を瞳に宿した。
「あそこにある名前の主たちは皆、過去に別れを告げ、己の足で前を向いて歩き出していった。……キースも、もう俺を責めてはいない。そのことを、君が教えてくれた」
「ええ。キース様は、あなたが生きることを願っていらっしゃいます」
「わかっている。だが……」
レオンは言葉を切り、苦しげに眉間を寄せた。
「俺は、毎晩のようにここへ通い、君の淹れる茶を飲み、君の料理に救われている。……だが、同時に恐ろしくなるのだ」
「レオン様……?」
「平和な日々に毒され、俺の剣は鈍っていくのではないかと。夜、目を閉じても、戦場で散った部下たちの断末魔より先に、君の焼くパンの匂いが浮かんでしまう。戦場に魂を置いてきたはずの俺が、この温かいスープの底に、彼らへの誓いを溶かして消滅させてしまうのが恐ろしい」
伏せられた灰青色の瞳には、触れれば壊れてしまいそうなほど脆く切実な情愛と、己を苛む苦渋が色濃く揺らめいていた。
この宿の温もりに惹かれれば惹かれるほど、彼は己の刃が鈍ることを恐れ、そして何より、エレノアの穏やかな暮らしに戦場の血と泥を持ち込んでしまうことを恐れているのだと、その痛ましい声の震えが伝えていた。
「君は眩しすぎる。王都の泥沼から這い上がり、この宿の主として、傷ついた人々を温かく迎え入れている。そんな君の清らかな場所に、血と泥にまみれ、己の刃の鋭さを失うことに怯える男が、いつまでも長居していいはずがない」
レオンは立ち上がり、腰の長剣に手をかけた。
その動きは、かつて初めてこの宿を訪れた夜のように、冷たく、頑なだった。
「お茶を、ありがとう。……美味かった」
銀貨をカウンターに置き、レオンは足早に玄関へと向かった。
「待ってください、レオン様……!」
エレノアの引き止める声も届かず、重い木製扉が冷たい夜風を孕んで開かれ、そして固く閉じられた。
馬の蹄の音が、夜の街道へと遠ざかっていく。
一人残された広間で、エレノアは立ち尽くした。
テーブルの上には、半分ほど残された温かいミントティーのカップが、ぽつんと置かれていた。
(どうして……そんな悲しいことをおっしゃるの……?)
エレノアの胸の奥に、かつて経験したことのない、鋭い痛みが走った。
それは客たちの痛みに共鳴する痛みではない。
エレノア自身の心が、彼を失いたくないと激しく叫んでいる、生身の感情の痛みだった。
夜空を見上げると、群青の帳の向こうに、夕暮れの一番星――夕星が、冷たく、美しく瞬いていた。




