第11話「扉を閉ざす夜」
降り注ぐ陽光は日増しに強さを増し、宿の軒先には燕が巣を作り始めていた。
エレノアはカウンターの隅に置かれた銅製の花瓶の水を替え、庭から摘んできた青い勿忘草を挿した。
瑞々しい茎が花瓶の底に触れ、微かな水の音が静まり返った広間に広がる。
だが、その空間には、ぽっかりと冷たい穴が空いたような寂寥感が漂っていた。
レオンが背を向けて立ち去ったあの夜から、十日が過ぎていた。
毎夜、八時の鐘が鳴るたびに、エレノアは玄関の扉へと視線を向けた。
カモミールと薄荷の葉を白磁のポットに入れ、いつでも湯を注げるように準備を整えて待った。
カウンターの端、彼がいつも座っていた席の前には、綺麗に磨き上げた足つきの小グラスを置いた。
だが、真鍮の呼び鈴が鳴ることはなく、暖炉の火が燃え尽きるまで、誰もその席に腰掛けることはなかった。
(レオン様……)
彼が去り際に残した言葉が、今もエレノアの胸を刃のようにえぐり続けていた。
『血と泥にまみれ、己の刃の鋭さを失うことに怯える男が、いつまでも長居していいはずがない』。
なぜ、そんな残酷な言葉で自らを縛りつけるのか。
エレノアにとって、彼がどれほど大きな支えになっていたのかを、あの不器用な騎士は何も分かっていない。
昼前、エレノアは宿の買い出しのために、麓の宿場町へと足を運んだ。
石畳の通りには荷馬車が行き交い、商人たちの威勢の良い掛け声が響いている。
小麦粉と塩の袋を麻の籠に収め、鍛冶屋の前を通りかかったとき、エレノアの耳に見知った紋章をつけた兵士たちの会話が飛び込んできた。
「……おい、聞いたか。副団長がまた無茶を志願されたそうだ」
「北の黒岩峡谷の討伐隊だろう。あそこは先月の雨で岩崩れが起き、魔獣の巣窟になっている難所だぞ」
「ああ。本来なら本隊から大隊規模の兵を出すべき作戦なのに、副団長は手勢三十騎だけで先陣を切ると言い張って、今朝早くに出発されたらしい」
「無茶すぎる。最近の副団長は、まるで死に場所を探しているみたいじゃないか……」
兵士たちの無責任な噂話に、エレノアは持っていた籠の取っ手を固く握りしめた。
柳の編み目が手のひらに深く食い込む。
周囲のざわめきがふっと遠のき、ただ自身の浅い呼吸の音だけが耳の奥で反響した。
死に場所を探している。
あの人は、キースの魂に許され、友の幻影から解放されたはずだった。
それなのに今度は、エレノアを汚さぬため、自分の牙を確かめるためという独善的な理由で、自らの命を戦火の底へと投げ込もうとしているのだ。
「そんなの……許せませんわ」
エレノアは震える声で呟き、身を翻して宿へと駆け出した。
夕星亭に戻ると、玄関の扉の隙間に、一通の手紙が挟まれていた。
粗末な封筒の表面には、見慣れた無骨で角ばった文字で『エレノア殿』とだけ書かれている。
エレノアが留守の間に、騎士団の伝令が届けてくれたものに違いなかった。
エレノアは広間のテーブルに崩れ落ちるように座り、乱暴に封を破った。
中から現れた一枚の羊皮紙には、短く、無駄のない言葉が並んでいた。
『エレノア殿。
突然の無礼を許してほしい。
俺は北の峡谷の任務に就くことになった。戻れるかどうかはわからない。
君の淹れてくれた茶の温もりを、俺は生涯忘れないだろう。
君の宿は、迷える魂が帰るべき清らかな光の場所だ。
俺のような影を引きずる者が、その光を曇らせてはならない。
どうか、達者で。君がこの先、心穏やかな日々を送れることを、心から祈っている。
レオン・ヴァルハイト』
「……ばか野郎」
エレノアの口から、かつてレオンがキースに対して呟いたのと同じ言葉がこぼれ落ちた。
大粒の涙が便箋の上に落ち、インクの文字を黒くにじませていく。
「勝手なことばかり言って……! 清らかな光だなんて、誰が頼みましたか……!」
エレノアは手紙を両手で握りしめ、歯の根を食いしばった。
喉の奥から獣のような震える息が漏れる。
王都で婚約を破棄され、すべてを奪われた夜にさえ感じなかった激しい熱が、胸の底から一気にせり上がってきた。
不器用に手袋を外すときの指先、湯気の向こうでふっと緩む目元、そしてジュリアンの前に立ち塞がってくれたあの広い背中。
胸の奥で息づく彼の仕草のすべてが、エレノアにとってすでに失うことのできない生きた光となっていた。
失いたくない。
去りゆく誰かの背中を、ただ祈って見送るだけの存在で終わりたくはなかった。
生きて、この扉を開けてほしい。
傷だらけの手で差し出される銀貨を受け取り、湯気の立つ茶を前にして、もう一度笑い合いたい。
外はすでに夕暮れに染まり、遠く北の空には、重苦しい鉛色の暗雲が立ち込めていた。
エレノアは袖口で乱暴に涙を拭い、立ち上がった。
祈るだけでは何も変わらない。
だが、今の自分にできるのは、この場所で、彼が帰るべき灯火を絶対に絶やさずに守り続けることだけだった。
エレノアは暖炉に太い薪をくべ、火を大きく燃え上がらせた。
窓枠に真鍮のランプを置き、油をなみなみと注いでから、太い芯に火を灯す。
遠く夜の闇に向かって、その光が届くようにと祈りを込めて。




