第12話「名もなき待人」
北の山々を覆っていた暗雲は、三日目の夜、激しい豪雨となって辺境の地を呑み込んだ。
叩きつけるような雨粒が、夕星亭の屋根や窓を激しく打ち据えている。
山肌を削る土砂の匂いと、冷え切った湿気が、木造の宿の隙間から侵入してきていた。
雷鳴が遠くで轟くたびに、広間のランプの炎が頼りなげに揺らめく。
時刻はすでに深夜の十一時を回っていた。
こんな嵐の夜に、街道を通る者などいるはずもない。
エレノアは濡れた窓枠を布で拭きながら、北の空を見つめていた。
レオンたちの部隊は、この嵐の中で戦っているのだろうか。
怪我はしていないだろうか。無事でいてくれているだろうか。
胸を掻きむしられるような不安が、エレノアの息を詰まらせる。
そのときだった。
ドスン、と。
玄関の扉に、重い何かが倒れかかるような鈍い衝撃音が響いた。
風の悪戯ではない。
エレノアは雑巾を放り出し、急いで玄関へと駆け寄った。
固く閉ざされた閂を外し、力を込めて扉を引く。
激しい雨風が吹き込み、エレノアの髪とエプロンを一瞬で濡らした。
その足元、敷居の板の上に、一人の男が倒れ込むようにして膝をついていた。
「きゃっ……! 大丈夫ですか……!?」
エレノアは身を屈め、男の肩を抱き起こした。
男は全身ずぶ濡れで、泥にまみれた黒いマントをまとっていた。
年齢は五十代半ばほどだろうか。
白髪の混じった髪が雨水で額に張り付き、その顔色は青白く、唇は紫色に変色していた。
「……宿、か……ここは……」
男のかすれた声は、雨音にかき消されそうなほどに微弱だった。
「はい、夕星亭です! どうぞ中へ、早く……!」
エレノアは華奢な身体で男の巨体を支え、必死の思いで広間の暖炉の前へと引きずり込んだ。
扉を閉めて閂を掛け、荒い息を吐きながら、男を長椅子へと横たえる。
男の衣服からは、滝のように雨水が滴り、床に黒い水たまりを作っていた。
エレノアは手早く乾いた毛布を何枚も抱えて戻り、男の濡れたマントを脱がせて、身体を包み込んだ。
厨房から熱い湯を張った金盥を運び、清潔な布を浸して、男の泥だらけの顔や手を拭っていく。
「今、温かいスープをお持ちしますね。意識をしっかり持ってください」
男は小さくうなずいたが、その瞳は焦点が合わず、虚ろに天井を彷徨っていた。
エレノアは厨房へ走り、火にかけてあった鍋から、玉ねぎと干し肉を煮込んだ熱いスープを椀に注いだ。
盆に乗せて広間へ戻り、男の上体を慎重に起こす。
「少しずつ、口をつけてください」
スプーンでスープを男の唇に運ぶと、男は乾いた喉を鳴らし、吸い込むようにしてスープを飲み下した。
三口、四口と飲み進めるうちに、男の頬にわずかな赤みが差し、荒かった呼吸が次第に落ち着いてきた。
「……生き返ったようだ。かたじけない、お嬢さん」
男は深く息を吐き出し、自らの震える両手を見つめた。
その手は、武骨だが爪の手入れが行き届いており、かつて高い身分にあった者の名残を感じさせた。
身につけている濡れた上着も、泥で汚れてはいるが、王都の一流の織元で作られた上等なウールであることが見て取れた。
「少し落ち着かれましたか。お怪我はございませんか」
「ああ……怪我はない。馬車が峠の泥濘に車輪を取られて横転し、従者たちともはぐれてしまってね。暗闇の中を彷徨っていたら、遠くにひと筋の灯火が見えたのだ。この宿の明かりがなければ、今夜のうちに凍え死んでいたところだった」
男は弱々しく微笑み、暖炉の火に手をかざした。
そのときだった。
エレノアは自らの胸の奥が、かつてない奇妙な静けさに包まれるのを感じて息を呑んだ。
(え……? どうして……?)
いつもなら肌を撫でていくはずの、あの微かな風がどこからも吹いてこない。
これまで夕星亭を訪れた客たち――トーマス、マルガレーテ、リリィ、そしてレオン。
彼らと対面した瞬間、エレノアの胸には必ず、彼らが待ち焦がれている死者の香りと気配が、風のように流れ込んできた。
ラベンダーの香り、甘い林檎の匂い、木屑の芳香、焼け焦げた鉄の残煙。
それらの微細な手がかりによって、エレノアは彼らが誰を待っているのかを知ることができた。
だが、この目の前に座る男からは、何の気配も伝わってこなかった。
泥と雨水の匂いしかしない。
これまで客たちがまとっていた、あの古い記憶の香りが、この男の周囲だけぽっかりと抜け落ちている。
分厚い硝子越しに外の景色を見ているような、完全な無音と無臭の真空地帯。
まるで、彼の心の奥底が厚い氷の壁で固く閉ざされているかのように、完全な静寂と空虚だけが広がっていた。
(この方は……誰も待っていらっしゃらないの?)
それとも、自分の感覚が失われてしまったのだろうか。
エレノアは困惑と焦燥を隠しながら、慎重に口を開いた。
「旦那様。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。それから……どなたか、お連れ様をお待ちでいらっしゃいますか」
男はエレノアの問いに、眉を寄せた。
その瞳に、深い苦悩と混濁の色が浮かび上がる。
「名前……私の、名前か……」
男は自らの額を押さえ、苦しげに呻いた。
「思い出せないのだ。……いや、自分の名前はわかる。だが、なぜ自分がここへ来たのか、何を求めてこの街道を歩いていたのかが、霧の向こうに消えてしまったように思い出せない」
「え……?」
「私は……誰かを待っていたはずなのだ。二十年もの間、片時も忘れずに、その誰かに会うために生きてきたはずなのだ。だが……それが誰だったのか、その顔も、声も、名前すらも、どうしても思い出せないのだよ」
男の声は細く震え、広間の静寂の中に消えていった。
誰かを待つことだけを命綱にして生きながら、その相手の輪郭さえ霧の彼方に失ってしまった男の姿。
暖炉の火に照らされたその横顔に、エレノアの胸は痛ましく締めつけられた。
「旦那様、何か手掛かりになるお持ち物はございませんか。どんな些細なことでも構いません」
エレノアが促すと、男は濡れた上着の胸ポケットへと手を差し入れた。
取り出されたのは、革紐で頑丈に結ばれた、手のひらサイズの小さな布包みだった。
「これだけは……肌身離さず持っていた。これを見れば、思い出すはずだと信じて……」
男の震える指が、結び目を解いていく。
濡れた布の中から現れたのは、細かな銀の彫刻が施された、古い懐中時計だった。
長年の使用によって銀の表面は擦れ、ところどころが黒ずんでいたが、蓋の中央には誇り高い細密なレリーフが彫り込まれていた。
二本の交差する剣と、一輪の杜鵑草の花。
その紋章を目にした瞬間、指先の感覚が急速に薄れ、懐中時計の重みだけが手のひらの皮膚に無機質に食い込んでいた。
(この紋章は……!)
見紛うはずもなかった。
それは、エレノアの実家である王都のクロムウェル伯爵家――いや、それよりももっと古い、エレノアの亡き母の生家である、名門アシュレイ侯爵家の裏紋章だった。
エレノアが幼い頃、母の首元にかけられていたロケットペンダントに刻まれていたのと、寸分違わぬ意匠。
なぜ、この見知らぬ男が、母の家の紋章を持つ懐中時計を、命懸けで抱きしめているのか。
男は震える指先で懐中時計の蓋を押し開けた。
カチリ、と小さな金属音が響く。
硝子の内側、止まってしまった文字盤の裏側には、色褪せた小さな肖像画が収められていた。
そこに描かれていたのは、幼い少女を抱き上げて微笑む、若き日の美しい母の姿だった。
そして、その腕の中に抱かれている幼子は――
幼き日の、エレノア自身だった。
息を呑んだエレノアの喉が詰まり、激しい雨音だけが広間を包み込んでいた。




