第13話「銀の時計と誓いの騎士」
豪雨が窓を激しく打ち据え、硝子の向こうの暗闇を水流が歪めていた。
エレノアは息を止めたまま、男の手のひらに載せられた古い銀の懐中時計を凝視していた。
文字盤の裏蓋に収められた、小さな肖像画。
そこに描かれていたのは、柔らかな栗色の髪を後ろでまとめ、慈愛に満ちた菫色の瞳で微笑む、若き日の母の姿だった。
そして、その胸に抱かれている幼い少女の額には、エレノア自身と同じ、淡い銀の産毛が揺れている。
「……お母様」
エレノアの唇から、かすれた呟きがこぼれ落ちた。
その声に、長椅子に座る男の肩が激しく跳ね上がった。
男は混濁していた灰色の瞳を大きく見開き、信じられないものを見るかのように、エレノアの顔を凝視した。
「いま……何と、おっしゃいましたか」
「この肖像画の女性は……私の亡き母です。アシュレイ侯爵家の息女、セシリア・アシュレイ。そして、この腕に抱かれている子供は……幼い頃の私、エレノアです」
男の呼吸が止まった。
男の喉の奥から、乾いたかすれ声が漏れ出す。
震える指先が宙を彷徨い、エレノアの顔立ち、その菫色の瞳、凛とした眉の形を、貪るように確かめていく。
「エレノア……様……? まさか……そんなはずが……あのお小さかったエレノア様が……」
男の全身が、激しい身震いに襲われたように震え始めた。
毛布を取り落とし、男は床の上に崩れ落ちるように膝をついた。
長年、彼の記憶を閉ざしていた濃い霧が、雷鳴とともに吹き払われていくかのように、その瞳に光が満ちていく。
「ああ……思い出した……思い出したぞ……! 私は、ギルバートだ……! セシリア様の護衛を務めていた、ギルバートだ……!」
男――ギルバートは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き伏した。
(ギルバート……)
エレノアの記憶の底に眠っていた、温かな残像が鮮やかに蘇る。
母が生きていた幼き日、クロムウェル伯爵家の広大な庭園で、いつも母の後ろに影のように控えていた、物静かな大柄の護衛騎士。
高い木に引っかかってしまったエレノアの麦わら帽子を、背伸びをして取ってくれた、あの優しかった手の感触。
「ギルバート……本当に、あなたなのですか」
「エレノア様……申し訳ございませんでした……! 許してください、どうか私を許してください……!」
ギルバートは石畳の床に額を擦り付け、慟哭した。
その背中には、二十年もの間、男の魂を苛み続けてきた、耐え難い後悔の重みがのしかかっていた。
「セシリア様が流行り病で急逝された後……クロムウェル家の屋敷は、まるで温もりを失った氷の牢獄のようになってしまいました。後妻が権勢を振るい、奥様を慕っていた者たちは次々と館を追われ、残された者たちも互いに疑心暗鬼となって息を殺すばかりだったのです……!」
男の絞り出すような声が、雨音をつんざいて響く。
「私は伯爵に直訴しました。どうか、セシリア様の忘れ形見であるエレノア様のお傍に置いてほしいと。だが……私は不敬罪を着せられ、王都から追放された。あんな冷酷な屋敷の中に、幼いあなたを一人きり残して……私は逃げ出すことしかできなかった……!」
ギルバートは自らの胸を拳で叩き、血を吐くような告白を続けた。
「私は己の無力さを恥じ、放浪の旅に出ました。いつか力をつけ、あなたを迎えに行こうと……だが、年月が経つにつれ、私は病に侵され、自分がなぜ生きているのか、何を求めて彷徨っているのかすらわからなくなっていった。ただ……この時計だけを抱きしめて、誰かを待っていた……誰かに謝らなければならないと、それだけを頼りに……!」
なぜ、この男の周囲に死者の匂いが漂っていなかったのか。
ギルバートが探し、魂の底から待ち望んでいた相手は、とっくに彼岸へ去った者などではなかった。
今、この目の前にいる、エレノア自身だったのだ。
王都を追われ、婚約を破棄され、誰の役にも立てない厄介者として見捨てられたと思っていた。
けれど、記憶が擦り切れるほどの年月を越えて、自分を探し続けてくれた人がいた。
エレノアの視界が、にじんだ熱い雫で滲んでいく。
彼女はギルバートの前にひざまずき、床に伏せられた男の泥だらけの手を、両手で優しく包み込んだ。
「面を上げなさい、ギルバート」
エレノアは背筋をすっと正し、静かに命じた。
その凛とした声音には、かつて王都の伯爵家で培われた貴婦人の気品と、揺るぎない威厳が宿っていた。
「エレノア様……私のような罪人を、どうか罵ってください……!」
「いいえ。私はあなたを恨んだことなど、一度もありません」
エレノアは静かに首を横に振った。
その声には、母セシリア譲りの凛とした気品と、夕星亭の女主人として培った深い慈愛が満ちていた。
「母が亡くなった後、屋敷の中であなたが私の頭をなでてくれた温もりを、私はずっと覚えていました。あなたが残してくださったその温もりがあったからこそ、私はあの冷酷な屋敷の中で、己の誇りを失わずに生き抜くことができたのです」
エレノアは懐中時計を拾い上げ、そっとギルバートの手のひらの上に戻した。
「あなたは私を見捨てたのではありません。母との誓いを胸に、今日まで生き抜いて、私を探し出してくださった。……ありがとう、ギルバート。私を見つけてくれて、本当にありがとう」
ギルバートは顔を上げ、涙に濡れた瞳でエレノアを見つめた。
二十年のときを超えて届いた赦しの言葉に、老騎士の曲がった背中が、堰を切ったように激しく波打った。
床の石畳に落ちた涙が、乾いた埃を吸って黒い染みを作っていく。
「セシリア様……ご覧ください……エレノア様は、こんなにも立派に、美しくお育ちになられました……」
ギルバートは懐中時計を胸に抱きしめ、静かに息を吐いた。
その顔からは、あの虚ろな影は完全に消え去り、誇り高い騎士の気骨が甦っていた。
ふと、雨風の音が静まったような錯覚を覚えた。
暖炉の火がふわりと立ち上り、広間全体に、白杜鵑草の花言葉――『永遠の記憶』を思わせる、清涼で温かな香りが満ち渡った。
母セシリアの魂が、忠義を尽くした従者と愛する娘の再会を、天の上からそっと抱きしめているかのようだった。




