第14話「生きる者たちの夜明け」
嵐は夜半過ぎに去り、東の地平線が白み始めていた。
夜明けの冷涼な空気が宿の周囲を満たし、雨に洗われた新緑の木々が、朝露を抱いてきらきらと輝いている。
夕星亭の玄関先で、乾いた服に着替えたギルバートが、穏やかな表情で立っていた。
その背筋は真っ直ぐに伸び、腰にはかつての騎士の威厳が宿っている。
「エレノア様。温かいもてなしを、心より感謝申し上げます」
「もう、行かれるのですか。もう少し身体を休めていかれてもよろしいのに」
「いいえ。私には、果たすべき務めができました」
ギルバートは懐中時計を胸のポケットに収め、力強く微笑んだ。
「王都へ戻ります。アシュレイ侯爵家の本家を訪ね、セシリア様の真実と、エレノア様がこの地で気高く生きておられることを報告いたします。あなたを蔑ろにした者たちに、恥を知らしめるために」
「ギルバート……復讐のためなら、どうかやめてください。私は今、この場所で本当に幸せなのですから」
エレノアの言葉に、老騎士は目尻を下げ、首を横に振った。
「復讐などではありません。正当な血筋と名誉を正すための戦いです。……ですが、あなたがこの宿を愛しておられるなら、私はその想いを守る盾となりましょう。どうか、お健やかにお過ごしください」
ギルバートは深々と一礼し、昇り始めた朝陽に向かって、確かな足取りで街道を歩み出した。
かつて迷い子の亡霊のようだった男の背中には、もう何の迷いもなかった。
エレノアは遠ざかる背中を見送り、小さく息を吐き出した。
地下室の壁に刻まれたヘンリー伯爵の文字、そして祖母マーサが遺した手紙の言葉が、胸の中でひとつの確信へと結実していく。
この宿は、死者を呼び寄せて過去を嘆く場所ではない。
残された生者が、愛する者たちの思い出を胸に刻み、過去に感謝の「さよなら」を告げて、自らの足で再び生きていくための場所なのだ。
(そして、私自身も……)
過去を待つだけの時間は、もう終わった。
エレノアは踵を返し、宿の中へと戻った。
今朝は、誰よりも温かい朝食を用意しなければならない。
根拠などなかった。
けれど、魂の奥底で、何かが強く叫んでいたのだ。
厨房で薪を熾し、鉄鍋にたっぷりの湯を沸かす。
新鮮な卵と香草を刻み、焼き立てのパンの香ばしい匂いが広間に立ち込めた、そのときだった。
ダダダダッ、と。
激しい蹄の音が、朝の静寂を破って宿の前へと滑り込んできた。
荒い馬の息遣い。
飛び降りる金属の足音。
そして、非常の勢いで玄関の木製扉が押し開かれた。
カランカラン、とベルが乱暴に鳴り響く。
エレノアは厨房から広間へと駆け出した。
入口に立っていた人物の姿を捉えた瞬間、視界が涙でにじんだ。
「……レオン様……!」
そこにいたのは、レオン・ヴァルハイトだった。
黒い外套からは、濡れた獣の毛と、乾きかけた血の錆びた匂いが立ち上っていた。
分厚い革鎧には無数の生々しい傷が刻まれ、そこから泥水が滴り落ちている。
息は乱れ、肩は激しく上下し、濡れ羽色の髪は汗で額に張り付いていた。
だが、その灰青色の瞳はかつてないほど澄み渡り、真っ直ぐにエレノアだけを射抜いていた。
「エレノア……!」
レオンは長剣を床に落とすのも構わず、大股で歩み寄ってきた。
エレノアの前に立つと、青年は苦しげに息を整え、震える手を伸ばして、エレノアの華奢な肩にそっと触れた。
その指先は冷気と泥にまみれていたが、触れた奥底からは燃えるような熱気が伝わってきた。
「無事だったか……! 昨夜の豪雨で、街道が崩れたと聞いて……馬を走らせて戻ってきた……」
「レオン様こそ……そのお怪我は……任務は、どうなさったのですか……!」
「峡谷の魔獣は掃討した。本隊の撤退を見届け、馬を飛ばして戻ってきた」
レオンは自嘲するように息を漏らしたが、その瞳には迷いの色が微塵もなかった。
「……手紙を置いて立ち去った俺を、責めてくれていい。君の言う通り、俺はばか野郎だ」
「レオン様……」
「戦火の中で、死線の向こうに見たのは、キースの幻影ではなかった」
レオンの声が、低く、しかし熱く震えた。
彼はエレノアの両肩を包み込み、引き寄せるようにして距離を縮めた。
「刃を振るうたびに、俺の脳裏に浮かんでいたのは……君の笑顔だった。君が淹れてくれる温かい茶の匂いと、君が迎えてくれるこの場所だった。俺は……死に場所を探していたんじゃない。君の元へ生きて帰るために、必死で剣を握っていたんだ」
男の熱い吐息が、エレノアの額をなでる。
「俺はもう、死者の影を追うためにここへ来たのではない。……君と一緒に、明日を生きるために帰ってきた」
張り詰めていたものが音を立てて解け、エレノアの瞳から涙がとめどなく溢れ出した。
泥で汚れた革鎧の冷たさも構わず、エレノアはレオンの胸元へ飛び込み、その広い背中にありったけの力で腕を回した。
「ばか野郎は……あなたです……! どれほど心配したか……どれほど、あなたを失うのが怖かったか……!」
「……すまなかった。もう、二度と君を置いて行かない」
エレノアは冷たい金属の胸当てに顔を埋め、背中に回した腕にありったけの力を込めた。
分厚い革鎧越しに、力強い心臓の鼓動がエレノアの頬へと伝わってくる。
鎧の冷たさを通り越して、生きた人間の確かな体温が、エレノアの胸の奥底へと染み渡っていった。
ふと、カウンターの端に置かれた、あの空席の丸テーブルへと視線が向いた。
そこには、朝陽が黄金色の光の帯となって降り注いでいた。
銀のスキットルも、酒杯もない。
ただ、窓から吹き込んできた爽やかな初夏の風が、レースのカーテンを軽やかに揺らしていた。
その風の中に、確かに聞こえたような気がした。
『よく言ったぜ、相棒』と、いたずらっぽく笑う、若き戦友の晴れやかな声が。
キースの魂は、もうここにはいない。
友の生きる未来を見届け、安らかな光の中へと旅立っていったのだ。
エレノアはレオンの胸の中で涙を拭い、顔を上げた。
二人の瞳が、至近距離で真っ直ぐに見つめ合う。
「お帰りなさいませ、レオン様」
「ああ。ただいま戻った、エレノア」
東の空から差し込む陽光が、夕星亭の広間を隅々まで照らし出していた。
それは、過去の夜を乗り越え、生きていく者たちだけに訪れる、眩しい朝明けの光だった。




