番外編「遠き日の春便り」
◇レオン
山脈から吹き下ろす残雪の風が、ようやく柔らかさを帯び始めた。
レオン・ヴァルハイトは白毛混じりの軍馬の手綱を引き、街道を見下ろす丘の上で足を止めた。
腰に佩いた長剣の柄に手を乗せ、眼下に広がる宿場町を一望する。
三年前、北の峡谷で激戦を繰り広げた日々が、いまや遠い前世の出来事のように感じられるほど、辺境の地には穏やかな春が満ちていた。
魔獣の大規模な発生は途絶え、騎士団の任務も要塞の警備や定期巡回が主となっていた。
鞍から降り、馬の首筋を軽く叩いて労う。
手袋を外すと、手の甲や指先にはかつて戦場で刻まれた古い傷跡が白く残っている。
だが、冷たい雨の日にその傷が疼くことは、もうほとんどなくなっていた。
(あいつの墓参りも、先週済ませたばかりだな)
キースの魂が眠る北の丘には、今では一面に白い野花が咲き誇っている。
かつて毎夜、自らを責めるように呷っていた強い蒸留酒は、今では年に一度、友の命日に盃を傾けるだけのものになっていた。
キースが遺した銀のスキットルは、夕星亭のカウンターの奥、祖母マーサの形見の小箱の隣に、静かに安置されている。
手綱を引いて宿場町の石畳へと降りていくと、通りのあちこちから活気のある声が響いてきた。
冬の間は閉ざされていた露店が軒を連ね、商人たちが荷馬車から色鮮やかな布地や新鮮な野菜を降ろしている。
通りを歩くレオンの姿を認めると、町の人々が親しげに会釈を返してくる。
かつて氷の副団長と恐れられ、近寄りがたい殺気を放っていた男に向けられる視線とは、まるで違っていた。
「おや、レオン様じゃありませんか」
通りの一角、真新しい看板を掲げた工房の前から、温厚な声がかけられた。
振り返ると、鉋を手にした初老の男が、作業用の革エプロンを払って歩み寄ってくるところだった。
トーマスだった。
三年前、雪の降る夜に夕星亭を訪れ、二十年前に亡くなった妻を待っていた、あの老職人だ。
その顔色は驚くほど血色が良く、腰の曲がりも目立たない。
何より、かつて死人のように沈んでいた灰色の瞳には、確かな職人の誇りと活力が満ちていた。
「トーマス殿。工房の仕事は順調のようだな」
「ええ、おかげさまで。春の婚礼用の家具の注文がたくさん入って、弟子の若い奴らとてんてこ舞いですよ」
トーマスは嬉しそうに目尻を下げ、工房の奥へと視線を向けた。
中では二人の若者が、木材を削る心地よい音を響かせている。
工房の窓辺には、手入れの行き届いた陶器の鉢が置かれ、そこには可憐な白杜鵑草の花が、楚々とした白い花びらを揺らしていた。
「今年も、綺麗に咲きましたよ。エマが好きだった花です」
トーマスは愛おしそうに鉢を見つめ、それからレオンに向き直った。
「夕星亭の庭の花も、もう咲き揃いましたかな」
「ああ。エレノアが毎日水をやり、雑草を抜いて世話をしている。今朝も蕾がいくつか開いていた」
「そうですか、そうですか。あの宿でエマの手紙を読んだあの日から、私の時間はもう一度動き出しました。残された命をどう使うべきか、あの宿の温かいスープが教えてくれたのです」
老人は胸元に手を当て、深く頭を下げた。
「エレノア様によろしくお伝えください。近いうちに、新しい椅子の手入れに伺うとね」
「伝えておこう。無理はするなよ」
トーマスと別れ、再び街道を進む。
町の中央広場へ差し掛かると、甘く香ばしい香りが風に乗って漂ってきた。
広場の角にある小さな菓子店からは、焼きたての林檎のパイを求める主婦や子供たちの行列ができていた。
看板には『セリアの林檎菓子工房』と美しい金文字が躍っている。
店先で笑顔を振りまきながらパイを包んでいるのは、かつて王都から娘の帰りを待ちわびていたマルガレーテだった。
彼女は娘のレシピを忠実に受け継ぎ、この町で一番愛される菓子職人となっていた。
その表情には、もはや娘を失った絶望の影はなく、娘の愛を形にして人々に分け与える、母の確固たる誇りだけが輝いていた。
レオンは列の邪魔にならないよう、遠目からその光景を眺め、口元をかすかに緩めた。
失った者への想いを大切に抱えながら、誰もが今日という日を懸命に生きている。
詰所へ立ち寄ったレオンは、巡回日誌を手早く記入し、私物を整理した。
団長からの「今夜は早く上がっていいぞ」というからかい混じりの言葉に短く頭を下げ、レオンは宿場町を後にした。
夕星亭へと続く山道に入ると、荷馬車の御者が手綱を引いて追いついてきた。
「よう、レオン様! ちょうどよかった、夕星亭宛ての荷物を預かってるんだ」
御者が差し出してきたのは、南の農園からの焼き印が押された、小さな木箱だった。
添えられた手紙の封筒には、まだ拙い、しかし丁寧な少女の筆跡で文字が並んでいる。
『エレノアさん、レオンさんへ。
南の町はもうすっかり夏のように暖かいです。
おじちゃんの畑で採れた、甘い杏のジャムを送ります。
お兄ちゃんの木彫りの小鳥は、今でも私の勉強机の上で、一番近くで見守ってくれています。
いつか大きくなったら、また夕星亭にお泊まりに行きますね。
リリィより』
レオンは手紙を丁寧に折り畳み、木箱を片腕に抱え上げた。
木箱からは、豊かな陽光を浴びた果実の甘い香りが微かに立ち上っていた。
あの吹雪の夜、兄の遺した鈴を胸に泣いていた小さな少女が、今では大地にしっかりと根を張り、元気に育っている。
その事実が、レオンの胸を温かく満たしていく。
坂道を登りきると、木々の合間から、見慣れた二階建ての木造宿屋が姿を現した。
夕暮れの淡い紫の空の下、屋根瓦が茜色に染まり、煙突からは細い白煙が真っ直ぐに立ち上っている。
庭の隅には、満開を迎えた白杜鵑草の群生が、風に吹かれてさざ波のように揺れていた。
そして、一階の窓。
暖炉の火とランプの明かりが、橙色の温かな光となって、薄暗くなり始めた街道を優しく照らし出していた。
(帰ってきた)
かつては、どこにも帰る場所のなかった自分。
死線ばかりを追い求め、暗闇の中で息を殺していた男が、今ではこの灯火を目指して足を早めている。
馬を繋ぎ、木箱を抱えて玄関の扉へ手をかける。
真鍮の呼び鈴が、澄んだ音を立てて小さく揺れた。
扉を開けると、香ばしいパンの匂いと、ハーブを煮詰めたスープの湯気が、一気に全身を包み込んだ。
カウンターの奥から、エプロンをつけたエレノアが、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、レオン様」
「ああ、ただいま戻った」
レオンは木箱をカウンターに置き、エレノアの柔らかな肩をそっと抱き寄せた。
触れ合う体温の確かさに、心からの安堵が広がる。
ここが、自分の生きる場所だ。
この温もりを守るために、自分は明日も剣を握り、この場所へと帰ってくるのだ。




