エピローグ「夕星の灯る窓」
◇エレノア
夕星亭の庭に植えられたプラタナスの大木が、涼やかな葉擦れの音を響かせていた。
あの激しい嵐の夜から、七年の歳月が流れていた。
宿の外観は祖母マーサの時代と変わらぬ素朴な佇まいを保っていたが、手入れの行き届いた木肌は深い飴色に輝いている。
街道を行き交う旅人たちの憩いの場として、広く知られるようになっていた。
午後の日差しが差し込む広間で、エレノアは焼き上がったばかりの丸パンを籠に並べていた。
髪を後ろで束ねたその横顔には、かつて王都のサロンで浮かべていた憂いは微塵もない。
日々の充実と幸福に満ちた柔らかな光が宿っている。
「きゃっ、きゃっ」
広間の隅、柔らかな羊毛の絨毯の上から、愛らしい笑い声が響いた。
三歳になる息子のテオが、木製の小さな積み木を夢中で積み上げている。
その髪は父親譲りの濡れ羽色で、好奇心に輝く瞳は、エレノアと同じ澄んだ菫色をしていた。
ガラリと裏口の扉が開き、薪を抱えたレオンが入ってきた。
騎士団の任務を終えて非番の日には、こうして宿の力仕事を一手に引き受けてくれる。
額の汗を拭いながら薪を暖炉の脇に積む夫の姿に、テオがよちよち歩きで駆け寄った。
「とうしゃん! これ、できた!」
「おお、上手に積めたな、テオ」
レオンは無骨な手で我が子の頭を優しくなで、抱き上げた。
かつて冷徹な刃のようだった男の横顔は、すっかり穏やかな父親のものとなっていた。
高い高いをされたテオが歓声を上げ、広間に明るい笑い声が満ちる。
エレノアは目を細め、胸の奥に広がる温もりを噛み締めた。
ジュリアンに切り捨てられ、実家を追われたあの日の絶望は、いまやこの幸福な日々に辿り着くための、長くて暗いトンネルに過ぎなかったのだと思える。
「エレノア、今夜の仕込みは終わったか」
テオを絨毯の上に下ろしたレオンが、カウンター越しに優しく声をかけてきた。
「ええ、ポトフも煮込み終わりましたし、パンも焼き上がりましたわ。テオ、そろそろお昼寝の時間よ」
「はーい」
素直にうなずく息子を抱き上げ、二階の寝室へと連れていく。
柔らかなベッドに寝かせ、絵本を読み聞かせると、小さな子供はすぐにすやすやと心地よい寝息を立て始めた。
額にそっと口づけを落とし、エレノアは音を立てずに部屋を出た。
階段を降りる途中、ふと足が地下室へと向かった。
ランタンを手に持ち、石段を降りて突き当たりの石壁の前に立つ。
漆喰の剥がれた花崗岩の表面には、無数の文字が刻まれている。
トーマス、マルガレーテ、アルフレッド、ヘンリー伯爵、そしてギルバート。
この宿で過去に別れを告げ、己の足で歩き出していった人々の祈りの跡。
そして、その中央。
七年前の春、レオンが生還した翌日に、二人で並んで刻んだ文字があった。
『レオン・ヴァルハイト 友の光を胸に、君と共に生きる』
『夕星亭 エレノア 待つことをやめ、明日へ歩む』
エレノアは愛おしそうにその文字を指先でなぞった。
この宿は、過去を悼む場所から、今を生きる人々の命を育む場所へと、確かに生まれ変わったのだ。
◆ ◆ ◆
やがて日は沈み、空は群青から深い藍色へと移ろっていった。
東の空に、夕暮れの一番星――夕星が、凛として銀色に瞬いている。
レオンは二階でテオの寝顔を見守るため上に上がり、一階の広間には、パチパチと爆ぜる暖炉の火の音だけが静かに流れていた。
エレノアはカウンターの席に腰掛け、真鍮のランプの明かりの下で、本日の帳簿に羽ペンを走らせていた。
今夜は宿泊の予約客もなく、静かな夜になりそうだった。
そろそろ扉の閂を下ろそうかと立ち上がろうとした、そのときだった。
からん、と。
夜の静寂を破り、玄関の真鍮のベルが、澄んだ音を立てて鳴り響いた。
エレノアはペンを置き、姿勢を正した。
重い木製扉がゆっくりと内側へ押し開かれ、初夏の涼やかな夜風が、広間へと流れ込んでくる。
そこに立っていたのは、一人の若い旅人だった。
埃にまみれた外套を深く羽織り、手には小さな革の鞄を提げている。
旅人はどこか疲れ果て、迷い子のような、頼りなげな眼差しで、ぽつりと灯るランプの光を見つめていた。
その瞳の奥には、何か大切なものを喪失した者が抱く、深い哀惜の影が揺らめいていた。
「いらっしゃいませ。夕星亭へようこそ」
エレノアは穏やかな微笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
旅人は広間のおだやかな温もりに息を呑み、それから、恐る恐る口を開いた。
「……こんばんは。部屋を、一つお願いできますでしょうか」
「かしこまりました。どうぞ、暖炉のお近くへお入りください」
エレノアが進み出て旅人の外套を預かると、彼女の胸の奥に、ふわりと言葉にならない柔らかな風が吹き抜けた。
それは、遠い海原の潮騒のような、微かな、しかしひどく切実な塩の匂いだった。
目の前に立つ青年が、自らの命よりも大切にしていた誰かを、今も魂の底から待ち焦がれていることだけが、胸を締めつける温もりと共に伝わってくる。
宿帳を開き、羽ペンを差し向ける。
「何日ほど、お泊まりのご予定でしょうか」
旅人はペンを受け取ったが、名前を書く手を止め、窓の外の夜空をじっと見つめた。
その瞳に、迷いと、祈るような痛みが差す。
「……わかりません」
旅人は、ぽつりと答えた。
「自分が、いつまでここにいるべきなのか……私には、わからないのです」
エレノアは旅人を静かに見つめた。
彼が誰を待ち、どんな後悔を抱え、何を恐れているのかは、まだわからない。
想いを代わりに伝える術はなくても、この青年もまた、己の足で答えを見つけて歩き出す日が来るはずだ。
エレノアは優しく微笑み、棚から真鍮の鍵を手に取った。
そして、新たな旅人のための部屋を用意した。




