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遥はもったいないと思う。夏の才能は本物だ。もしかしたら音楽の歴史だって変えられるかもしれない。でも、その才能は決して表にはでない。その必要がないからだ。
「遥はなりたい自分ってあるの?」夏が聞く。夏はピアノに寄りかかっている。……なるほど。できるだけ家に帰りたくないのか。夏は自由に憧れている。家の外が自由だと思い込んでいる。逃避しているんだ。
「とくにないよ」遥は笑顔で答える。夏はじっと遥を見つめる。どうやら夏は遥が答えをごまかしたと思っているようだ。
「本当に? 私に隠してるだけなんじゃないの?」夏はさらに遥に疑いの眼差しを向ける。
「本当だよ。あんな素敵な演奏を聴かせてもらったあとに嘘なんかつかないよ」
「音楽は関係ないでしょ?」
「関係あるよ。夏の音には力があるもの」遥がそう言うと、夏はちょっと嬉しそうな顔をする。でも、それからすぐに真顔に戻る。夏はどうやら自分の音を評価された喜びを表に出さないように、必死にその表情をこらえているようだ。そんな仕草が、夏らしいといえば夏らしい。
夏はきっと私を自由な人間だと空想している。夏の頭の中にいる木戸遥という人間はきっとそういう人格をしているのだろう。
もしそれが本当なら、それはそれで素晴らしいことだとは思うけど、現実の私はそういう人間ではない。夏の頭の中にいる木戸遥という人物と、今、ここにいて夏とお話をしている現実の私は違う人間だ。そして私の頭の中にいる瀬戸夏と、今、私の目の前にいる現実の瀬戸夏も違う人間だった。
……お互いにすれ違っている。
……だから一生、交わることもなく、出会うこともない。私たちはいつまでたっても、本当の私たちと出会うことができないのだ。




