88
夏が移動して遥の隣にやってくる。夏はそのまま音楽室の机の上に腰を下ろした。遥は元の席に座った。
「どう? 結構いけてるでしょ?」
机に座って足を振っている夏はお嬢様には見えない。あんなに美しい音を生み出せる人物にも見えない。でも夏はそんなことを気にしない。初めてあったときから、夏はずっと夏だった。
「うん。すごいよ、夏。私、音楽で感動したの初めて」
「本当はね、私、ピアニストになりたいんだ」
「夏ならなれるよ。きっとなれる」
「でも、それは無理なの」夏は悲しそうな顔をして笑う。それから夏は机の上から音楽室の床の上に着地する。
「ならないの?」
「なれない。私の人生は、私のものじゃないから」夏は深いため息をつく。
夏はすごく寂しそうだ。きっと瀬戸の家に生まれるということは、そういうことなんだろう。遥自身も瀬戸家とはまったく無関係の人間ではないから(と言うか、かなり深い関係にある)夏の立場というものを、それなりに理解することができた。
早熟の天才科学者、木戸遥は瀬戸家からの莫大な資金提供によって、(そのすべてではないにせよ)自身の研究活動を行っていた。
夏と初めて出会ったのも、瀬戸家が主催するクリスマスイブのパーティー会場だった。この学園にだって瀬戸家の後押しで入学している。
瀬戸家との契約には、当たり前のように守秘義務があり、瀬戸家との共同研究におけるあらゆる事柄は、部外者の夏には秘密のことだった。(もっとも契約がなかったとしても、遥は夏にそのことを話そうとは、思わなかったけれど……)




