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その言葉を聞いて夏の体の動きが止まる。今、遥は照子が笑っていたと言った。……照子が笑う。照子は表情をもたない。感情を持たない。笑うことはない。それは照子が生まれたときからじゃないのか? 照子も赤ちゃんのときは泣いたりしたのか? 笑ったりしたのか? ……照子はそのとき、……どこにいた? ベットの上? 今暮らしているあの真っ白な部屋の中? それとも透明な試験管の中だろうか? 夏は昨日の夜の出来事を思い出す。ぺたぺたという足音とあの魂が震えるような恐怖を思い出す。しまったな。夏は思う。拳銃は遥の部屋の中。リュックサックの中に置きっぱなしだ。持って来ればよかった。
「それで今は洞窟の中で暮らしてる」
「地下暮らしも楽しいんだよ。人に会わなくてすむから」遥は言う。でも夏にはそれが不満だった。遥には空が似合ってる。もっと高く。美しく。自由に空を飛ぶべきなんだ。そんな遥を見ていたいんだ。
遥は嬉しそうだけど、照子と出会わなければ遥はきっと空の中で暮らしていたと思う。遥自身はつまらないのかもしれないけれど、だからって地下にこもることはない。地下が似合うのは遥じゃない。照子だ。あの子には確かに地下が似合ってる。できれば一生、地下から出てこないで欲しい。……あれは地上に出してはいけないものだ。