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「あんなに寝相が悪いとは知らなかった」遥がおかしそうに笑いながら言った。遥はなぜか昨日よりも機嫌がいいように見える。なぜだろう? その理由が夏にはわからない。疲れている夏は遥に返事をしない。
「元気ないの? 夏」
「うん」
「床で寝るから疲れがとれないんだよ」コーヒーのいい香りが部屋の中に漂っている。その匂いにつられて夏はガラスの小瓶から角砂糖を二つコーヒーの中に溶かして一口飲む。美味しい。すごく気分が落ち着く。
「ねえ、照子はどうしてるの?」夏は言う。
「もう起きてるよ。照子は誰かさんみたいに寝坊はしないの」遥は笑う。
どうやら遥は夏を起こす前に照子の起床を済ませていたようだ。毎朝の習慣として夏が一定の距離を決まった時間で走るように、そうすることがきっと遥と照子の日常なのだろう。
「普段の照子はなにしてるの?」
「普段? うーん、まあずっと部屋の中にいるよ。朝起こして、お薬を飲ませて、トイレにいかせて、たまにお仕事をして、それから体を洗ったりして、夜は寝かせる。毎日毎日、その繰り返しかな?」遥はバターをたっぷりと塗ったトーストを一口食べる。
「勝手にどっかいったりしないの? もしくはいきなり喋り出したりとかさ?」夏も無理して目玉焼きを乗せたトーストを食べる。食べないと勝負には勝てないからだ。美味しい。
「しないよ。それは絶対にない。照子はあの部屋以外の場所では生きていけないんだもの。脳波もあるし、意識もあるけど、会話もでいないし、体もほとんど自由には動かせない」
「絶対に?」
「うん。絶対に」
夏はフォークで刺したウインナーをかじる。かりっという音がする。食感が楽しい。味も美味しい。
(……でも、なぜだろう? それが(今日は)ときどき、なぜか人の指のように見える。大きさによって、小指とか薬指とか、親指のように見える。……それは、どうしてだろう?)
もぐもぐと口を動かしながら夏は少しだけ、首をひねった。
「……? 味、どこかおかしかった?」と遥が言う。
「ううん。どこもおかしくない。すごく美味しいよ」と夏は遥に笑顔で答えた。




