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人がコントロールしなければいけないものは世界ではなく自分です。自分で自分をコントロールするのです。目を向けるべきは外ではなく内側です。自分の内側をよく見て、観察して、そして誰よりも深く理解することです。そしてそのためには愛がなくてはいけません。人には、愛が必要なのです。自分自身を愛することが必要とされているのです。……ごめんなさい。なんだか、悲しいお話ですね。
サイエンス誌インタビュー記事。質疑応答。質問、戦争はなぜなくならないのですか? 返答者。雨森照子博士。
木戸研究所 地下シェルター室奥にある緊急治療室の中。
旧型の四角いコンピューターの画面に文字が出る。……雨森照子、宿木澪、二人の深海からの帰還を確認。
雨森照子が目を覚ますと、そこには宿木澪がいた。
澪は照子の体に覆い被さるように体を重ねている。そのため照子は体を動かすことができないでいた。
「みお、おもい」
なんの反応も返ってこない。照子は心配になって澪の顔に自分の顔を近づける。すると澪の呼吸が聞こえてきた。
よかった。みお。いきてる。
ねむっているだけだ。
照子は安心すると天井を見つめた。真っ白な天井。海の中でも太陽の中でもない。(過去でも、未来でもない。もちろん情報記憶の集合体の海である深海の中でもない)
照子は今、木戸研究所の中にいる。宿木澪の温もりの中にいる。
みおがわたしをたすけてくれたんだ。
深海の中で出会った澪の姿を、照子は思い出していた。
緑色の瞳をした『男の子』の澪。
とても、かっこよかった。
深海から戻ってきた今も、なぜか澪は男の子の姿のままで眠っている。澪はいつの間にか、白いクジラから人間に変化していた。
澪が人間の男の子だったのは夢の中での出来事のはずで、架空のお話のはずだった。だからなぜ澪が本当の人間になっているのか、その理由が照子には全然理解できなかった。
深海と呼ばれる巨大な情報記憶装置の中に蓄えられた(それはもしかしたら本当の海よりも大きいかもしれない)記憶情報の海の中で二人は夢を見て、その夢から目覚め、そしてその夢がそのまま現実の世界にまで溢れ出して、澪に(もしかしたら照子にも)魔法をかけたかのような、そんな、とても不思議な現象だった。(……それはつまり奇跡だ)
澪と自分の体の間に強引に手を差し込んで、自分の右手を胸の上に当てると、とくん、とくんと心臓の鼓動を感じた。
わたしはいきている。すごい。わたし、いきているんだ。
照子の目から涙がこぼれる。
もうすべて出し切ったと思ってたのに、涙はいくらでも溢れてくる。(どうしてだろう? わたしのつめたいからだは、ほんとうは、ゆきとこおりでつくられているのかもしれない)
照子が泣いていると、澪の体が微かに動いた。
照子は顔を澪の顔に向ける。
澪の瞳がゆっくりと開いていく。
澪の瞳は緑色のままだった。透き通った宝石のような(今まさに生み出されたばかりのような)緑色の目が、じっと照子を見つめている。
「……また泣いているの?」
澪はとても優しい声で、照子に話しかける。
照子はなにも答えずに、ただ澪の体を抱きしめた。(力は出なかったけど、できる限り全力で抱きしめた)




