二、命
「ようこそ、神の社へ」
ひやりとした冷気が俺の全身を撫でた。
青白い光。薄闇に慣れた目が霞み、目を細める。開いた壁の中には、新たな空間が広がっていた。そしてそこに、一つの影が浮かび上がった。
「私は天照。ここは全ての人を司る聖なる場所。新たな月読と成ったお前に、私の叡智の全てを授けよう」
少しずつ視界がはっきりとしていく。怜悧な瞳で俺を見下ろしているのは、一人の少女だった。いや、少女と呼べるのかは不明だ。背格好は思春期の女子と同じくらいだが、俺より幼くも見えるし、年老いても見える。そして何よりも、美しかった。顔、体、肌、髪、全てが精巧で、整っていた。
「お前の質問全てに答えよう。知りたい事があるならば、私に問うが良い」
声は例の放送と同じだった。妖艶で何もかもを魅了する魔性の響き。聞いているとどこか気が遠くなるような感覚を覚える。吸い込まれる。俺は自分の中の何かを食い止めようと、鞘に収めたイザナミを強く握り締めた。
「さあ、問え。月読よ、お前は何を求める?」
状況を整理する間もなく矢継ぎ早に語られ、思考が追いつかない。
「どうした。私は偽らぬ。自由に問うが良いぞ」
彼女から目を離せないまま、俺の口は小さく動いた。
「…君は?」
「私は天照。新たなヒトの母となる者だ」
会話に一瞬の沈黙すらない。その答えが予め用意されていたように、間髪入れず返事が返ってきた。再び問う。
「…ここは」
「神の社。お前と私達の永住の地」
「永住、って」
「お前はここから出る事はできない」
「どうして」
「そう決まっているからだ」
「何のために」
「私達の子を成す為だ」
耳を疑った。子を成すって、どういうことなんだ。
「子供、を?」
「そうだ。その子らが新たなヒトの礎となる」
彼女は何を言っているのか。これは月読の儀式で、新しいこの町の象徴を決める戦いじゃなかったのか。
次から次へと浮かぶ疑問符が、俺の口から溢れて止まらない。
「この儀式は、月読を決めるためのものじゃないのか」
「間違いではない。私達に相応しき伴侶を決める儀式だ。伴侶とは月読の事だ」
「月読って…何なんだよ」
「強き者、全てを淘汰する力を持つ者だ」
埒が明かない。彼女の答えは真実なのだろう。だが、俺の求める答えとは何かがずれている。
一息ついて、頭の中を整理した。こうなったら、俺が納得できるまで解を求めてやるだけだ。
「月読…さっきの男は、月読だったんだろう?」
「そうだ。あれは先の月読。一つ前の儀式で勝ち残り、私達の伴侶となった者」
「どうしてあの人は…死ななきゃならなかったんだ」
「あれは既に使用限界を超えた個体だ。あれでは私達の望む子は成せぬ。故に新たな個体と交換する必要があった。あれは最早、必要のないごみだ」
何の感情もなく淡々と告げられる言葉に、怒りでかっと体が熱くなった。
「ごみだなんて、そんなこと言うな!」
「それは問いではない。私は問い以外には答えぬ」
彼女は眉一つ動かさず、口を噤んだ。何がしたいんだ。何が起こっているんだ。
「…この儀式は、元々はただの闘技大会だったって、本当なのか」
「本当だ。遥か昔の話だがな」
「じゃあいつから、こんな殺し合いになってしまったんだ」
「およそ八十年前。この町の信仰が変わり、月読が神と崇められる様になった後のことだ」
「誰が…こんなことを」
「聡愛会だ」
聞きなれない単語に、俺の言葉が止まる。混乱する頭で必死に記憶を辿り、それに思い当たる。聡愛会総合病院、俺達が住む町から少し離れた大きな町にある病院。月守町の人間がお世話になることはほとんどないが、有名な病院らしい。そういえば昔、近所のお年寄りが重い病を患った時にそこへ運ばれていったことがあった。
なぜそんな名前を、ここで。
「聡……愛、会?」
「この儀式を取り仕切っているのが聡愛会。私達を生み出したものだ」
余計に頭が混乱してきた。瑞樹の手記にあった通り、月読の儀が第三者の手で歪められたという真実はあった。けれど彼女の回答が全て真実ならば、儀式も何もかもがもう町の歴史や風習とは全く関係がなくなっているということだ。俺達が小さい頃から信じてきた月読様の伝説も、願いが叶うという言い伝えも、幻だったということになる。
気味が悪い。理解できないし、腑に落ちない。彼女の答えを鵜呑みにして大人しく月読になれと言われているのだろうが、そんなことを俺は許せなかった。
「…お前たちは、何が目的なんだ」
彼女は相も変わらず、まるで機械のように答えを吐き出す。
「完全なるヒトを作ること」
「完全なる、ヒト…なんだよ、それは」
「完全なるヒトとは」
初めて回答までに少しの時間があった。身じろぎもせずに息を吸い込み、刺すような視線で俺を見つめながら、彼女は一気に言葉を繰り出した。
「生誕時、その子が満二十歳になる時を基準とし、生物学上雄の場合、身長百七十から百八十、体重七十から七十五。生物学上雌の場合、身長百六十から百六十五、体重四十五から五十になると予測される前提。視力二以上、歯列矯正の必要無し、顔面構成物が全て左右対称であること。一般教養、歴史、地理、数学、言語、化学、生物、その他全ての現存する知識を欠如なく所持していること。音感、運動能力共に人間の平均値の二倍以上を有し、描写力、色彩感覚に措いても同様の値を有すること。具体的に、知能指数が…」
淀みなく一定のペースで吐かれ続ける呪文のような言葉に、眩暈がした。半分以上は何を言っているのか理解できない。長い長い解が俺を取り巻いて、渦の様にぐるぐると回っていた。決して良いとは言えない俺の頭脳で彼女の言葉を拾う。人間として一つも欠落のない、容姿も頭脳も体力も完璧な人間。それを、人の手で、作ろうとしている。そしてその為に、俺達は戦った。殺し合い、彼女や聡愛会が求める完全な人間を作る道具になるために。
瑞樹の手記に、女性が月読になれないと書いてあった理由が解った。女性は必要とされていないのだ。彼女がいるから。初めから瑞樹や文達が生き残る未来は、なかったんだ。
まだ彼女の口からは反吐の出るような内容が続く。俺は耐えられず、声を荒げた。
「…やめろ…やめろ!!」
「まだ回答は完結していない」
「うるさい! 何が完全な人間だ、何が新しい人類だ! そんなくだらない事の為に、皆は死ななきゃならなかったってことなのかよ!」
「新たな問いか。宜しい。その通りだ。しかし語弊がある。下らない事ではない」
「くだらねぇよ!! 馬鹿馬鹿しくて、夢みたいな話でしかないだろ!」
「夢ではない。現実になる。お前と、私達ならば成せる事だ」
彼女を睨み付けた。そこでふと、彼女のこれまでの台詞に引っかかるものを感じた。
「お前…さっきから自分のこと『私達』って言うけど、お前は一人じゃないか」
彼女が僅かに首を傾げた。
「私達だ。ここにいるではないか、私達が。お前には見えぬと言うのか」
そして、大きく両手を広げてその背後を指した。
そこにあったのは沢山の、カプセルのような物だけだった。整然と同じ間隔で並ぶ、同じ入れ物が数十。中には透明な液体だけが入っている、ようにしか見えないが。
「これ、は…?」
「これが私達だ。全てが私であり、未来である。私達は完全なる子を成す為、何度でも産まれるのだ」
現実味がない。けれど、テレビの中みたいなことが、目の前にある。つまり、これは。
「…クローン…?」
「正しいが、違う。私達は進化する。次の私は私であり、私ではない。今の私の欠落を埋め、更に理想へと近づいた私が産まれる。私は私達への通過点でしかない」
信じられなかった。パイプに繋がれたこの小さなカプセルの中に、人間がいるなんて。人の手で、命を作れてしまうなんて。
「じゃあ…じゃあお前に欠陥が見つかれば、お前は…死ぬってことなのか?」
「そうだ。母体である私達に欠落は許されない。欠落のある私達は未来にとって不要なものだ。不要であるならば、存在する意味は無い」
事も無げに言い放つ。その表情は一つも変わらなかった。悲しみや恐れなんて、微塵もない。重さのない命、それが俺達と彼女の決定的な違いだった。
「怖く…ないのか」
気付けばそんなことを口走っていた。この儀式で、俺は色々な死を見てきた。その中には死を厭わない人もいた。でもそれは生の裏返しだった。誰もが生きたいと、死にたくないと願っていた。そして俺も、何度も生死の瀬戸際に立って、その恐怖と絶望を知った。だからこそ俺は生きると誓ったんだ。
彼女の唇が少しだけ嘲笑に歪んだように見えた。
「恐れ、そんなものは私達にはない。私達に感情は必要とされていない。感情とは人を惑わせる。完全なヒトを作るには、全ての感情は不要である」
次の瞬間、俺はその場に組み敷かれていた。動きも気配もなかった。ただ動けなかった。彼女の瞳が深く俺を覗き込み、逸らせない。
「質疑は終わりだ。浮世を捨て、月読となりて我が子を成せ」
氷のように冷たい指先が、俺の頬をなぞった。その途端一気に体中の力が抜け、思考が霞掛かる。彼女の瞳に囚われる。浮遊感。もう何も考えたくない。言い知れぬ心地よさに、身を委ね。
『お兄ちゃん』
声が、聞こえた。ような気がした。文の声が。だがきっと幻聴だ。
天照と名乗る彼女の嫋やかな指先が俺の指に絡まり、もう一方の手のひらが瞳を覆い隠し、視界が闇に囚われる。彼女が触れた先から甘美な毒が流れ込むように、すべての苦しみや憎しみが解け、滲み、とろける。今まで感じたこともないような悦楽と恍惚と弛緩。このまま何もかもを忘れ、受け入れてしまえば、俺は救われる、のだろうか。耳元で彼女の言葉と吐息が重なり、幾度も響く、「受け容れよ」「なすがまま」「愉悦のままに」「全てを」「忘れよ」、ああ、もうぜんぶ、捨てて。
『お兄ちゃん』
彼女の言葉の合間、切なくも懐かしく、聞こえるのは誰の声だ。暖かすぎる奈落へ誘われる意識が、その声に呼ばれて震える。
痛みを感じた。引き裂かれるくらいの激しい痛みを。心が叫んでいる、何かを。
だがそれを搔き消すように、彼女の囁きは麻薬のような心地よさで思考を手放させる。けれど痛みは消えることなく、俺はそれにしがみついた。堕ちそうになる自我を必死に繋ぎ止めた。『お兄ちゃん』、声は光の糸になって俺に優しく絡みつき胸を揺さぶる。生きて生きて、生き抜けと俺を呼び覚ます。まとわりつく闇への誘惑を無我夢中で振り払う。『お兄ちゃん』、その声だけを聴け、文の声を。
抗え。
動け。
月読になんか…なってたまるか。
おぼろげながらも覚醒する。天照の唇が俺のそれに重なろうとしていて、咄嗟に嚙みついた。
「っ!」
まさか俺が反撃に出るとは思っていなかったのだろう、完全に不意をつかれた彼女は咄嗟に俺から距離を取る。呪縛から解き放たれたように、体の感覚が戻ってくる。
唇に滲む血を意にも留めず、彼女はまじまじと俺を見ていた。
「…私から逃れるとは…素晴らしい。お前はかつてない優れた個体だ。新たなヒトの祖に相応しい、まさに選ばれし神の御子」
淡々と語りながら少しづつにじり寄ってくる。
「さぁ、私達と番え。お前の全てを私に捧げよ」
俺は腰のイザナミを握りしめ、おもむろにその刀身を抜き放った。眩い白銀、曇りのない真っすぐな煌めきはまるで文そのもののように感じられた。文の無念も、後悔も、罪も、愛も、心の全てが俺に流れ込み同化する。俺の胸の内を柔らかい光が満たしていく。
『綾、私はいつもそばにいるから』
「…ああ。ずっと一緒だ」
追憶の声に小さく応え、天照を正面から見据えた。構え、最速で踏み出し、一気に振り下ろす。確かな手ごたえがあった。
天照は微動だにせず、俺の斬撃を避けることもせず、雪のような肌に赤い花が咲いていた。倒れ伏す間際、何かを数度呟き、そのまま崩れた。あまりにも呆気ない決着に、気持ちがまったく追いつかなかった。足元の天照はもう動かない。
俺は大きく息を吐いた。
「…これで…終わった…」
「終わりなどない」
聞こえた声に背筋が凍った。今目の前に転がる亡骸と全く同じ声が、あの忌々しい放送スピーカーから流れてきた。
そして…目を上げると、そこには天照が、いた。死体と寸分も違わぬ、同じ服、同じ容姿の。
「私達は何度でも生まれ変わる。そしてその度に学習をする。前の私にはお前というデータがなかった。月読が私に抗うという想定もなかった。だから学習し、次の私に引き継いだ。お前に私はもう殺せない」
クローンのような存在。正直天照が言っていたそのことを、信じ切れていない自分がいた。しかし今、全てが本当だったと実感してしまった。あまりにも彼女達は同一で、双子とかそういうものとして脳を誤魔化すことすらできなかったのだ。得体のしれない悪寒が俺の全身を駆け巡り、生唾を飲んだ。刀を握る手に嫌な汗が溜まっていく。それでも俺は雑念を振り払うように頭を振り、しっかと剣先を天照へ向ける。相変わらず感情の無い瞳で天照は俺を一瞥する。
「ほう…まだ抗うつもりか。私を何度殺しても無駄だ、すぐに次の私が生まれるだけ。お前は私達から逃げられぬ」
「それがどうした…! 必ず、終わらせてやる…」
「…愚かな。無駄だというのに」
「無駄じゃない! お前が生まれる度に俺はお前を倒す、何度だって! お前のコピーだって、無限にいるわけじゃないんだろ! だったら最後の一人を殺すまで、俺は戦うだけだ!!」
叫びながら俺は、躍り出た。先程のように剣を振るう。天照はそれを避けたが、追いかける。彼女は武器も楯も持っていない、確実に俺の方が有利なのだ。彼女の背が壁に追い詰められ、俺はためらうことなく斬った。もちろんそれで終わるはずがない、彼女の言うとおり、すぐにきっと替えが来る。
思った通りで俺の背後からまた同じ声がした。
「なるほど。確かに私達には限界がある。それは認めよう」
思考している暇などない。振り向いて走り込み、そのまま斬った。
「だが、お前の思い通りにさせるわけにはゆかぬ。私達は存在しなくてはならない」
次は右から。手首を返しそのまま斬り上げた。
「しかしお前を失うこともできぬ。お前はヒトの祖足り得る御子」
今度は左から。体を回転させその勢いで叩き斬った。
「ならば如何にして」
斬る。
「お前の行いを」
斬る。
「止めるべきか」
斬る。
…気が狂いそうだ。俺を取り囲むように折り重なるのは全く同じ人形みたいな無数の骸。終わりのないゲームのごとく、斬っても斬ってもきりがない。それでもただひたすらに、俺は現れ出でる天照を斬り続けるしかない。息が上がる。腕がきしむ。血の匂いがこびりつく。イザナミも俺も、赤く染まっていく。
何体斬っただろう。矢継ぎ早だった天照の出現がはたと止まった。感覚を研ぎ澄まして気配を探るが、何も起こらない。
替えがなくなったのか。…終わったのか。ほんの少し感じた期待に警戒心が緩みかけた。しかし。
「ようやくお前を把握できた。御子よ…高天綾よ」
姿なく聞こえた声に希望は易々と打ち砕かれてしまった。疲労で上がらない腕を無理やりに引き起こし、イザナミを構えるが天照はどこにもいない。スピーカーを通さない彼女自身の声色であったが、仄白く照らされた俺の周囲にはその形を確認できなかった。響いてくる声は近いような遠いような不安定な距離感で俺を取り囲み、脳に直接語り掛けられているような、不気味な音色だった。
「お前を傷つけず、殺さず、如何にして私達に従属させるか、その解も導いた。お前を突き動かしているものは何なのか。単なる衝動か。怒りか。憎悪か。正義か。違う。お前を動かすのは『想い』だ。お前の失った全てへの想い、それこそがお前自身の強さであり、弱さでもある」
何か心の内を見透かされたようで、思わず息が詰まった。
「その『想い』が消えぬ限り、お前は私達に抗い続けるだろう。ならば———それを利用すればよい」
かつん、と小さな足音が反響した。これまで戦った天照はそういえば足音がなかった、みな素足だったからだ。かつん、近づいてくるのは明らかに靴で固いタイルの床を踏みしめる音。ゆっくりと足音が近づき、革靴を履いた華奢な足先が暗闇から静かに覗いた。茶色い革の学生靴、次いで露になる黒いタイツの足首、すらりとした脚、膝丈の紺色のスカート、セーラージャケット越しでもわかる細い腰、赤いスカーフ、揺蕩う黒髪。
黒曜石の瞳が二つ、凛とした眼差しで、俺を、見つめている。
誰よりも、何よりも、大切で、愛おしい———彼女が———文が。
「っ……嘘、だ…」
言葉を失い、立ちすくむしかできなかった。頭の中では激しく警鐘が鳴っている、これは罠だと。それなのに、文がそこにいるというだけで感情は軽々と冷静さを跳び越える。目の前の彼女は偽物なのだ、文は死んだ、あれは違う、必死で自分に言い聞かせる。
彼女が口を開く。
「お前を把握するためには、もう一つ把握すべきものがあった。高天文。お前の全て。その『想い』の全て」
声までも、同じだった。夢の現実の境にいるような感覚に、眩暈がする。
「お前が心から求めるもの。これまでの月読と違い、お前には決して忘れられぬ強い存在がある。それが高天文。お前の意識を壊し私達の叡智と技術でお前を従わせることもできるが、それでは意味がない。ただの傀儡ではヒトの祖とは成り得ぬ、これまでのように。お前の精神を残したままで月読とする———お前の意志をもって月読となるための最適解。それは私達がお前の求めるものであること」
文の顔で、文の声で、文が言うはずもない台詞を紡がれ、頭がショートしそうだった。彼女が言ったことなど全く俺の耳には入って来ず、ただ目が逸らせないままでいた。吐き気と全身の震えを抑え込み、イザナミを彼女に向ける。刀身が震える。あれは敵だ、敵なんだ、文じゃない…そう何度己に言い聞かせても、それでも。
「…これならば、私を斬ることも出来まい」
「…く、っ…お前、なんか…」
白刃の先の顔は、俺の心を鈍らせるには充分すぎた。とめどなくあふれ出る涙が悔しさからなのか、喜びからなのか、もはやそれすらもわからない。文ではないと理解していても、彼女の姿をしている者を切り裂くことなど出来るはずがなかった。
もう…駄目だ。
目を伏せ、膝をついた。イザナミが手から滑り落ちる。戦う気力も何も、失った。彼女が悠々と俺に歩み寄るのを、ただ茫然と眺めるだけ。その白い指が俺に触れる。見上げた先には、吸い込まれそうなくらいに綺麗な、黒い瞳。漆黒の闇。無様に見つめる俺が映り込む。ふわりと垂れた髪がヴェールのように視界を覆う。顔と顔が触れ合いそうなほど近づき、記憶の中の文と目の前の彼女が重なっていく。時が止まる。
「………なんだ、これは」
彼女は一言、そう呟いた。
「なんなのだ、この情報は。この感覚は…!」
俺に注がれていた視線が揺らぎ、その表情が苦悩に彩られていく。頭と胸のあたりを搔きむしりながら、数歩後ずさる。
「おかしい、在り得ぬ、在ってはならぬ! なぜこんなものがあるのだ! なぜ私達に不要なものが生まれたのだ!」
髪を振り乱し、目を見開いて天照は虚空に吼えていた。動揺している…まさにそんな様子だ。何が起こったのかまるで理解できず、俺は取り乱す彼女を見ていた。彼女は延々と独り言のようにものを言い、そして否定するように頭を振った。
「知りすぎた…のか…彼奴の心を…『想い』というものを…不要だ…私達には不要なのだ…心など…感情など…想いなど…要らぬ…!」
刹那。彼女は俺が取り落とした刀を素早く奪い去り、ためらいもなく、その首筋に当て、引いた。
勢いよく立ち上る血の噴水が、俺に、あたり一面に、降り注いだ。彼女はまるで糸の切れた人形のように、その場へくしゃりと頽れた。
まだ数度痙攣している亡骸の向こうに、人影が揺らめく。現れたのはやはり文の姿の彼女で。しかし彼女の表情に余裕はなく、眉間には深く皺が刻まれている。俺のことなどまるで視界に入っていないようで、頭を抱えながら独り言を吐き出し続けていた。
「戻れぬ...許されない...それが…私達の...定め...掟…進化を、止めては、ならない…学習し、書き換え、産まれなくてはならない…」
そこまで呟き、はたと動きを止めた。
「…私達は...戻れない…完全なるモノには…この『想い』という不純物を組み込んでしまったことも…学習であり…進化であり…消すことは、もう、許されない」
彼女は骸の手からイザナミを取った。ふらふらと彼女の背後、数十と並んだカプセルの前に立ち、そして、それを。
激しくガラスが砕ける音。弾けるように流れ出る透明な液が機械部にかかり、白光と黒煙を上げる。彼女は隣のそれもイザナミを振るって叩き割る。破片が彼女の頬を裂き、液体が体を濡らしても、気にせず次々とカプセルを砕いていく。俺の膝元まで流れた液体が辿り着き、生暖かさと例えようのない嫌な匂いを感じた。俺にはその匂いが、生命そのものの匂いのように思えた。
天照は破壊されたカプセルの土台へ上がり、その奥―――カプセルに隠されるように鎮座する小さなガラス管にそっと触れた。それもまた機械に繋がれ、青白く光を浴びて煌めいていた。その中にも液体が詰まっている。きっと他の物と同様に、天照のクローンを作る何かが入っているのだろう。大切に守られるようにして置かれていたそれは、何か重要な意味があるものなのかもしれないが。
「……私達は完全だった。しかしもう、完全な私達は生まれない。完全でない私達は不要である。不要なものは」
彼女は抑揚のない声色で小さく言い、
「…存在してはならない」
ガラス管を、握り潰した。
部屋中に低く響いていた機械音が止み、静寂が訪れた。血と焦げ臭さと生臭いような饐えた匂いで息が詰まる。視界の先の彼女は、静かにイザナミを持ち直し、首に当てる。
「私も同じ…不完全なモノ…存在してはならないモノ」
刃が引かれていく様を、なす術もなく、ただ、俺は。
何も、なかった。
何一つ、生かせなかった。
俺だけが、そこにいた。
どうして俺だけが残されたのだろう。それは俺自身にも、誰にも、答えられない問いかけだった。
絶望は慟哭となって、俺の全身を震わせた。
散っていった全ての命が、悲しみの露となり、俺の頬を濡らし続けた。




