あなたへ
グラスの氷がからん、と音を立て、随分長い時間が経ったと気付いた。覆うように付いた水滴はもどかしげにゆるゆると滴り落ち、コースターに不規則な模様を描く。じっとそれを見つめながら、俺は最後を締めくくった。
「…これが、あの時起こった全てです」
目の前に座る人の手が止まった。手帳へ熱心に書き込んでいたその人は、目を上げて俺に薄く笑った。
「…ありがとう。話を聞けて良かった」
ぎこちない笑みを返す。思っていたよりも口角は上がって、まだ笑えるんだ、と心の中で自嘲した。
分厚い手帳を無理やり胸ポケットへねじ込む彼は、相原正彦という刑事だ。俺は今、彼に連れられて、数年ぶりに月守町へと足を運んでいた。
正確には、月守町『だった』場所に。
彼から初めて連絡をもらったのは、俺がこの町を離れて一年ほど経った頃だった。俺はあの儀式の後すぐ、一家で町を出た。どうやって廃校から助けられたのかはよく覚えていない。気が付いたら大人に囲まれていて、そのまま警察に連れて行かれた。長い長い事情聴取。磨り減りすぎた俺の心は鍵を掛けてしまい、何も話せなかった。それからも警察の聴取やマスコミの好奇の目に晒される毎日で、俺の事を思った両親が引越しを決断したのだった。
けれど俺は、県外に引っ越した後両親の元を離れた。父さんと母さんの悲しむ顔を、見ていられなかったからだ。家の中の暗い空気に耐えられなくなって、逃げるように東京へ引っ越した。生活には困らなかった。なぜか我が家には莫大な金が送られていて、その出所は、未だに不明のままだ。
相原から接触されたのは、そんな矢先だった。
『私は聡愛会について調べている。奴等の悪事を暴きたい。君の話を聞かせてくれないか』
聡愛会。その単語を聞いただけで、吐き気がした。もちろん全て断った。もう何も思い出したくなかった。今でも悪夢に魘されて目を覚ますことがあるくらいなのに、その記憶をもう一度蘇らせるなど、絶対にしたくなかった。
カフェを出て、ショッピングモールを無言のまま歩く。休日のこういう所は人が多い。幸せそうなカップルや家族連れが俺の横を通り過ぎる度、喪失感が俺の胸を押し潰す。
「…具合が悪いのか? 少し休むか」
相原は俺の顔を覗き込み、短く言った。初対面の人間にすらわかるくらい、俺の顔は蒼白だったらしい。頭を振って、前を向いた。
「大丈夫です。気にしないでください」
早くこの場から立ち去りたかった。足元から怨念のような物が立ち上っているような気がして、飲み込まれそうな恐怖に追われていた。ここを選んだのは相原だ。きっと俺の懸念など、この人は知らない。とは言っても、この町が小さな町であることに代わりはなく、腰を落ち着けて長い話をするのに良さそうな場所なんて他に無かったから、仕方ないのだが。
「…しかし、随分と変わってしまうものだな。町も、人も」
歩き出した相原が小さく呟いた。俺も同じ事を思っていた。まさかここであんな凄惨な事件が起こったなどと、誰が想像できるだろう。今のこの町には、平和の二文字しか似合わなかった。
「そうですね。ここにあの廃校があったなんて…知ってる人は、いないでしょうし」
あの日と同じ場所に、今、俺はいた。
相原からの連絡を無視し続けること数ヶ月。親ともあまり連絡を取らず、俺はひっそりと人目を忍んで暮らしていた。不自由は無く、それなりに快適で、少しずつ俺の傷も癒え始めていた頃。何気なくつけていたテレビのバラエティ番組を見て、俺は目を疑った。
グルメレポーターが見覚えのある景色を紹介していた。俺の良く知る、人生の一番濃厚な時を過ごした町。再開発されたのか様変わりはしていたが、全体の風景や自然は変わっていなかった。画面の端に写る町の名前は、しかし月守町ではなかった。全く知らない名前だった。
そういえば、月守町の名前をメディアで見ることがなくなったなと思った。あの事件の直後はどのチャンネルでも事件のことが放送されていて、歴史評論家とか犯罪心理の専門家とか、その他大勢が真実も虚偽も推測も好き勝手に話していたのに。まだあれから一年と少ししか経っていないはずなのに、もうどこにも月守町の名前はおろか、何一つ話題に挙がることはなかった。もっともっと昔に起こった連続殺人事件のことは、未だに放送されるというのに。
違和感は拭えず、図書館で昔の新聞や雑誌を漁った。いくらここが町から遠く離れた地だろうとも、新聞くらいは全国共通だろう。しかし俺は目を疑った。あの日。儀式が終わった日の新聞に、月守町の名前はなかった。当日分だけではない。そこからその日までの全ての新聞にも、事件のことは書かれていなかった。実家にいたときに受け取った新聞には確かに載っていたはずなのに。同じ日付の同じ新聞社のものは、全く違う記事が掲載されていた。
全て、何も無かったことにされていた。
「聡愛会は、未だに水面下で活動を続けている。表向きは何の変哲もない大学病院でしかないが、その裏は根深い。官僚や司法、報道、警察関係まで掌握していると俺は踏んでいる」
相原の独り言を聞きながら、ショッピングモールを後にする。町へ実際に来てみると不思議な感じだった。懐かしさと、知らない場所にいる感覚と、同じくらいの割合だ。
「奴らは巧みに捜査を掻い潜っているんだ。きっと既に、私のもっと上の人間は聡愛会の手の内にあるんだろうな。今じゃ奴らについて調べてる物好きは、私くらいさ」
ふっと、自嘲気味に鼻で笑う。
「お陰様で順調に窓際族だ。まぁ、こうして自由にやれるのは気が楽だから助かるがね」
「…どうして、相原さんはずっと奴らを追い続けるんですか?」
俺の素直な疑問に、相原は押し黙った。無愛想な顔が余計に強面に見える。
「だって、もしも聡愛会がそういう所まで手を伸ばしているなら、危険じゃないですか。それに、どうせ調べたって、無かったことにされてしまう」
あの事件みたいに。
俺はいても経ってもいられず、藁をも掴む思いで相原に連絡した。新聞やメディアで事実が隠蔽された理由は、相原が教えてくれた。もうあの儀式の真実を知っているのは、俺しかいないと彼は言った。関わった人間全員が何らかの形で、緘口令を敷かれたとも言った。俺の家に転がり込んだ金の理由にもなんとなく想像がついた。同時に、素直にそれを受け取った両親を少し腹立たしく思ってしまった。
けれど俺はまだ相原を信じられなかった。もし相原の言うことが真実だとしたら、相原だって警察の人間だ。俺に全てを話させて、聡愛会のいいように利用されないとも限らない。迷っている俺に、相原は言った。
『私にも、背負わせてくれないか』
あれ以来休まることの無かった俺の心に、一筋の安らぎが降りてきたような気がした。俺の抱えてしまったものは大きすぎて、それでも俺は逃げることを許されず、誰かに預けることも出来ない。辛さを感じることにばかり慣れてしまって、俺は他の道を自分で閉ざしてしまっていた。相原の一言が、俺の止まった時間を動かしてくれた。
そして決意した。相原に会おうと。全てを彼に話そう、と。
相原は珍しく、長いこと逡巡していた。答えを探している、というよりは、言うのを迷っている、というのが正しいだろうという表情だった。黙って答えを待つ俺に根負けしたように、彼は溜息混じりに言った。
「…何て言うのかな。覚えていたいんだよ」
そして、照れ隠しに頭を掻く。
「聡愛会は真実を闇に隠し、世間もそれを知らないままで過ぎ去っていく。そして当事者だった者も、辛い過去に蓋をして、忘れようとする。そりゃあそうさ、誰だって辛い記憶なんか、忘れてしまいたいと願うものだからな」
自分のことを言われているみたいで、ずきりと胸が痛んだ。
「それは誰にも責められない。忘れることで救われる人もいる。だから、代わりに私が、全てを覚えていようと思ったんだ」
俺達の視線の先で、飛行機雲が長く尾を引いた。遠くを見つめる相原の瞳は、空の青を映して曇りなく澄み渡っていた。
「今はまだ、小さい結果しか出せない。それほどまでに、聡愛会は強大だ。しかしいつか必ず、私の手で全てを白日の下に晒してみせる。そしてその時には」
ああ、この人に頼ったのは、間違いじゃなかった。
「私の覚えている全ての人が、救われると信じている」
急に立ち止まった俺の顔を見て、相原は狼狽した。俺が泣いていたからだ。焦りながらポケットを乱雑に探り、舌打ちをした。
「ど、どうしたんだ、どこか痛むのか!?」
それがなんだか滑稽で、不器用なこの人の心に触れたような気がして、笑えた。
「いえ…大丈夫です…大丈夫です…」
「…泣かれるのは苦手なんだ。生憎ティッシュもハンカチも、持っていない」
シャツの袖で、涙を拭った。この空みたいに、胸の中は晴れ渡っていた。
「ありがとう、相原さん」
何だ、急にと照れたように顔を背けられてしまった。それが可笑しくて、今度は声を立てて笑った。
間違いなく、俺はこの人に救われた。
きっとこの人は、この先も俺のような人たちを救っていくのだろう。その不器用な愛で、悲しみを背負った人たちの心を溶かしていくのだろう。そしていつか必ず、真実を明かしてくれるはずだ。
根拠は無いけど、そう感じた。
夕刻が近づき、空が段々と橙に染まっていく。夏を少し過ぎたこの町の空気は少し肌寒くて、草と、水の匂いがした。
俺達は川辺に来ていた。相原がどうしても見せたいものがあると、俺を引き止めたのだった。この川は何も変わっていない。あの時と同じ穏やかな流れで、時を見届けている。
隣の相原が、腕に巻いた時計をちらと見た。
「…そろそろ、かな」
「何があるんですか? どうしても見せたいものって」
少しだけ苦い顔をして、彼は答えた。
「……きっと先にこの事を言ったら、君は来てくれないと思ってな。隠しておいて済まない。これからここで、ある祭りが開かれる。それを君に見せたかった」
嫌な苦味が口いっぱいに広がった。相原の次の言葉がなんとなく予想できた。
「…今日は、月読祭の日なんだ」
やっぱりだった。走馬灯のように、あの日の記憶が駆け巡る。月読祭、儀式、みんな。唇を噛み、踵を返した俺の肩を相原が掴んだ。
「まぁ待て。いいから、見ろ」
相原の言葉に続くように、川上から歓声が上がった。思わずそちらに目をやる。そして広がる光景に、息を呑んだ。
川一面を覆い尽くすほどの、光。
ゆったりと流れに乗って、小さな灯り達が川を下る。
まるで夜空に浮かぶ、星のようだった。
「…これが今の、月読祭だ。君がこの町を離れた後、元々あった行事や風習は全て無くなった」
小さな小さなオレンジ色の光たちは、ゆらゆらと揺れながら俺の前を通り過ぎていく。
「しかし誰が始めたのか解らないが、年に一度、こうやって灯篭を流す新しい行事が出来た。もう信仰はないはずなのに、この日に月読祭という名前がついていた」
灯りを追いかけて、子供たちが川辺を走っていく。無邪気な声。命の音。
「君以外にも、忘れていない人がいたってことさ。この町で人知れず死者を悼み、弔う人が残っていた。それを君にも、伝えたかったんだ」
もっと近くで見たいと思った。揺れる光は暖かく、俺を誘う。
相原は察したように、俺の背中を押した。
「…行ってくるといい。きっとあの中に、君の友人たちも、いるだろうから」
彼が言い終わる前に、走り出していた。土手を降りて、岸へと近づく。無数の灯篭は様々な模様で彩られていた。柔らかい色合いの、色とりどりの花の絵。水面に映り、川に沢山の花が咲いていた。光の花園は厳かに、通り過ぎる。俺は無心で、それをただ、眺めていた。
その中に一つ、不思議な動きをする灯篭があった。流れに沿わず、他の花を掻き分けるように、それはこちらへと流れてきた。そして俺の前の岸に引っかかり、動きを止めてしまった。
何だか、その灯篭は寂しげだった。友と一緒に行けなかった、取り残された俺みたいだ。小さく微笑んで、仲間外れの背中を押す。
「……ほら、いきな」
その灯篭には、菖蒲の花が一輪。
揺れる、たゆたう、流れる。幾度となく巡って流れ、待ち続けた。
川を下り、海へとたどり着き、雨となって舞い戻る。
私はずっと貴方を待っていた。
もう残っている想いは僅かだけれど、もう一度貴方に触れたくて。
貴方の手が私に触れる。私はそう、貴方に最後に言っておきたかった言葉がある。
「愛してたよ。綾、本当にさようなら」
流れる。川の流れに身を任せて、私は流れていく。
もう一度、生まれ直すために。
軽く押すと、それはゆっくりと流れていった。名残を惜しむように、遠く見送る。花園へと舞い戻った灯篭は、今度こそ道に迷うことなく、皆と一緒に旅立っていった。
いつの間にか、隣に相原が立っていた。立ち上がった俺を見ずに、そっと、肩を叩いた。
無数の花達は、光を宿して海へと流れていく。炎の揺らめきと共に、俺は皆が天へと昇っていく姿を見た。彼等はきっと、安らぎの地へと辿りつけたはずだ。
「……忘れない。ずっと、忘れないから」
あの花たちのように、彼等は永遠に咲き誇る。例え実のならない徒の花だとしても、美しく、強く、限りある生を全力で、花開く。
命という名の、美しき華を。




