一、月読の儀
薄暗い階段を上がりながら、文から受け取った瑞樹の手帳に目を落としていた。そこに記されていたことは俺の想像をはるかに超えていた。
月読の儀の真実。月読に捻じ曲げられ、存在を消された天照という本当の神。瑞樹の一族、龍波の一族、秘められた過去。町そのものが何かによって歪められているということ。
階段は長く、ゆっくりと足を進めながら何度も何度も読み返した。理解できない部分も沢山あった。それでも何か、違和感のようなものが俺の心に浮かび始めた。
瑞樹の手記にあることが真実なのだとしたら、今行われている月読の儀は何なのだろう? 誰が何の目的で、こんな凄惨な儀式を行っているのだろう? 龍波は『僕の勝利は約束されている』と言い、手記を読んだ限りでも龍波が勝ち残るように操作されていたのは明らかだ。しかし、龍波は死んだ。今考えると、あの狐面は龍波の一族が送り込んだ刺客だったのだろう。龍波の命を守り、龍波の敵を排除するために。だが狐も死んだ。残ったのはこの町の因縁と何ら関係のない俺だけだ。
そして、これまでにも同じ儀式が行われているのに、歴代の月読はどうなったのか。必ず男性が生き残るように仕組まれている、手記にはそうあった。何故なのだろうか? 女性が生き残ることの不都合とは何なのか。
あと数歩で、頂上に着く。俺は手記から目をあげ、それを大事に胸の内ポケットへとしまった。考えていても仕方がない。どちらにしろ、この先にすべての真実がある。俺はそれをこの目で見定めるだけだ。
辿り着いた先は、まるで別世界のようだった。
この下がぼろぼろに朽ちた廃学校とは思えない位の新しさ。学校というよりは何かの研究所や病院のように感じられる。人の気配はないが、そこかしこで音が溢れていた。モーターのような、機械みたいな、低い唸り声だった。
『よくぞ参られた、月読の御子よ』
突然鳴り響いた放送に、俺は思わず肩を竦ませた。
『お前に最後の試練を与えよう。月読と成るべく、試練に打ち勝つのだ』
大広間で聞いたのと同じ声だった。
『屠れ。喰らえ。乗り越えよ。神の座は、神の上に立つ者にのみ許される』
そして静寂。数秒の後、俺の背筋を悪寒が走った。
ごり、ごり、と地を削るような音が聞こえる。足音のようなものも。音は反響して、四方から何かが迫ってくるような感覚を覚えた。そっとイザナギに手をかけ、身を低くしてその正体を探す。俺のいる空間は丸く広く、隠れるような場所はない。音が大きくなった。前方、ぽっかりと開けた場所に目をやった。
現れた『それ』に、俺は唖然とした。それを俺は知っている。見たことはある。この町に住んでいる人ならば必ず一度は見たことのあるもの。俺の前に立っているのは、月読様だった。
頭まですっぽりと覆う長い、白い着物のような布。そこには無数の目が描かれている。月読様は体中に目があって、悪いことをする子供をいつも見ていると小さい頃から言われてきた。黒い面には鬼のような、能面のような顔がある。体は大きかった。月読祭の最後に出てくる月読様と、そっくり一緒だった。一つだけ違うのは、その手に俺の身の丈ほどある大剣が握られていることだった。さっきの音は、それを引きずった音だったのだ。
予期せぬ月読様の登場に、俺はあんぐりと口を開けたまま動けなかった。しかし次いで流れてきた放送に、一層驚愕した。
『御子よ、戦うのだ。其の月読を超える事こそ、御子への試練であるぞ。戦え。見事月読を打ち負かし、新たな月読と成って私の元へと辿り着くのだ』
戦う、月読様と? 神と戦うなんて、そんな馬鹿げたことを。出来るわけがない。
俺の思考は断ち切られる。月読様の上半身がゆらりと揺れ、ぶら下げていた大剣を軽々と振り上げた。
「!!」
刹那、その場を飛び退いた。風圧と殺気。激しい破壊音と共に、さっきまで俺のいた場所の床が抉れていた。少しでも反応が遅れていたら、俺はきっと挽き肉にされていただろう。
月読様はその首を機械のようにゆっくりと回し、俺を捕捉した。恐怖に身が竦んだ。床を砕いた刀をまたも軽く持ち上げ、体ごと振り回すように、凪ぐ。
「っっ!!!」
硬直する体を何とか奮い立たせ、また飛び退いた。幸い、月読様の動きは遅い。何とか避けきった。
口がからからに乾いていた。粘ついた汗が全身から吹き出し、イザナギを握ろうとする手が滑る。指先の震えが止まらない。歯の根がかちかちと鳴った。
刀の重みと遠心力でふらついた月読様は、少したたらを踏んだがすぐに立ち直った。表情のない面が俺を見る。後ずさる俺を圧倒し、じりじりとその間合いを詰める。引き摺られた大剣が、床板を剥ぐ。唾を飲み込んで、イザナギを抜き、構えた。
「…戦え、御子よ」
面の下から、くぐもった声が発せられた。刑事ドラマの犯人によくあるような、機械を通した声色だった。顔も見えず、声も人のものではない、どこまでも人間とはかけ離れた存在。それが俺の恐怖を更に煽る。本物の月読様なのだと、認識してしまう。こんなちっぽけな人間の俺に、神と戦えというのか。
構えたイザナギの剣先が震えていた。それでも握り、正眼に構えた。こちらの方が圧倒的に速さはある。ならば懐に潜り込み、峰でも当てて動きを封じれば。大剣の間合いは広いが、その内側は無防備だ。
月読様が振りかぶるのと同時に、地面を蹴った。読み通り、太刀筋が俺に届く前にその中心へと入り込めた。刀を逆刃に返し、力任せに胴へ。手ごたえはあった。そのまま月読様の背中側へ抜ける。振り返った。だが。
月読様は何もなかったかのように、次の手を繰り出そうとしていた。
「嘘だろ、っ!!」
確かにイザナギは月読様の体をしっかりと打ったはずだった。なのに。痛みなど微塵も感じていないみたいだ。まるで、蚊にでも刺されたくらいな。
「くそっ! 切るしかないのかよ!!」
毒づき、反撃を躱す。空気を切り裂く激しい風圧。鼻先を掠めた。翻る衣の目玉模様が、ぎょろりと俺を捉えて離さない。おぞましさに、鳥肌が立った。体制を立て直す間もなく、次の一撃が来る。躱し、逃げる事しかできない。ああ、やっぱり俺は、逃げるだけなのか。もう逃げ続けるのは嫌だ。何も変わらないなんて嫌なんだ。こんなんじゃ、文に顔向けできない。戦うと決めたんじゃなかったのか、覚悟したんじゃなかったのか。そうだ。戦うんだ。皆の仇を討って、全てを終わらせるんだ。
月読から大きく距離を取り、息を吐いた。あれは人ではない。ましてや神なんかでもない。あれは、ただの怪物だ。あいつを倒すことでこの先の真実が見えるなら、俺は超えてみせる。必ず。
相変わらず緩慢な動作で俺を狙う月読と、正面に対峙する。イザナギの切っ先を睨み、踏み込んだ。狙うはその腕。あの巨大な剣を落とさせれば、勝機は見える。
「うああああぁぁぁぁっ!!」
雄叫びと共に、走り出した。思い通り、奴は飛び込んでくる俺に向かって剣を振った。瞬間、斜め後ろに体を引く。頬が薄く切れ、熱が走った。風のように通り抜けた剣を見送り、イザナギを振りかぶる。剣の軌道のままに月読の腕が下りる。目の前だ。振り下ろす。肉を絶つ感触。そのまま、体ごとイザナギを引いた。
「がぁぁぁぁぁっっ!!」
今度は月読の絶叫が響き渡った。衣の目が、見る見るうちに赤く染まっていく。月読は腕から血を流しながら、悶え苦しんでいた。
「よし…!」
狙い通りの結果に、張り詰めた警戒心が少しだけ緩んだ。それがいけなかった。
次の瞬間、俺は空を舞っていた。気が遠くなる。息ができない。何もわからないまま、壁へと叩きつけられた。
「が、はっ…!」
血の混じった唾液を吐き散らしながら、ようやく月読に殴り飛ばされたと理解した。剣を落とすことは成功したが、戦意を殺ぐことまではできなかったようだ。無傷の片腕が容赦なく俺の腹を抉り、軽々と二メートルほど吹き飛ばされた。熱い。視界がちかちかと点滅しながら回っている。体が動かない。殴られた時に手放したイザナギが、放物線を描いて月読の背後の床に落ちた。
気づけば月読はもう目の前にいた。俺を殴りつけた片腕で、がしりと俺の首元を掴みあげた。
「う…ぐぅっ……」
その馬鹿力に抵抗など全くできず、成すがままに体は浮き上がる。足が地面から離れ、俺は完全に宙に浮かされた。視線の先の月読が、面の下から呪詛を吐いた。
「…許さぬ…愚かな御子よ…我と天照を別つ輩…許さぬ…」
「ぐ…はな、せ…っ!」
「…貴様は我が屠る…苦しみ…嘆き…死ぬが良い…」
痺れる指で首にかかった月読の手を掻くが、力の差は歴然だった。その指は緩むことなく、俺の喉元を締め上げる。耳が膜を張られたように聞こえにくい。視界が少しずつ闇に染まる。世界が、遠ざかっていく。
脳裏を色々な記憶が駆け巡っていった。これが走馬灯っていうやつなのか。楽しかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、様々な思い出が蘇る。光。眩しい光。その中にいたのは、文だった。
『お兄ちゃん。こんな所で終わるなんて、許さないから』
声が、聞こえた。
「…もう無理だよ。俺は負けたんだ。もう…駄目だ」
『嘘。またそうやって逃げるつもり? お兄ちゃんはまだ終わらない。終わってはいけないのよ』
「どうにもできないよ…こんなやつ、勝てるはずない…」
『諦めないで。まだ道はあるわ。思い出して。そして、見つけて』
「どうやって…? わからないよ…文…」
『私の最期のお願い、叶えてくれるんでしょう? 綾には私がついてる。ずっとずっと、私は綾と一緒。だから、大丈夫』
「文、行くな…置いていかないで、くれよ…」
背を向け遠ざかる幻影の文に、手を伸ばした。届かない光の渦。文は優しげな、少し泣きそうな顔で、一度だけ振り向いた。
『綾、生きて』
消える。輝きの中に。逝ってしまう。残された俺は。伸ばした指先。触れる。暖かい。心。半身。対の、折れない、強さ。振り絞る。貫く。深くまで。
月読の手から、力が抜けた。締め付けから開放された俺は床に崩れ落ち、弾かれたように大きく息を吸い込んで、激しく咽せ返った。
「げほっ、げほっっ…!」
咳き込みながら、月読を見上げた。少しずつ目の焦点が戻り、結末を見た。
まどろみの中で俺はイザナミを抜き、それは月読の胸をしっかりと貫いていた。月読は体の真ん中に刀を生やし、仁王立ちのままで後ろに倒れた。そして最期に右腕を天へと伸ばし、生の声で小さく呻いた。
「あぁ…もう一度、お会い、したかった……愛しい、天照…さ、ま」
言葉が終わると共にがくりと力が抜け、もう二度と動くことはなかった。
月読が、死んだ。俺が倒した。殺した。
倒れた弾みで月読の面が外れていた。這いずるようにして近づき、その下の顔を見た。そこにあったのは神でも怪物でもない…やつれた青年の顔だった。目元や頬は落ち窪み、肌は土気色、頭巾から覗く髪は真っ白だった。年は俺よりも遥かに上だろう。あの馬鹿力はどこから出ていたのだろうかと思うくらい痩せていた。大きな体躯は、月読様という絶対的な存在の思い込みが見せた幻だったのか。
勝ったという事実だけがそこにあった。達成感も勝利の喜びも、ましてや悲しみすら浮かばない。熾烈な戦いを繰り広げたのに、俺には何もかもがわからないままだった。月読だった彼の死体を前に、呆然と座り込む。視界に映ったイザナミの輝き。後味の悪さはあったが、柄に手をかけると一気に引き抜いた。赤黒い命の色。無言でそれを振り払った。
再び、スピーカーが空気を震わせた。
『御子よ、良くやった。お前を新たな月読と認めよう。お前は神と成り、望みは全て果たされる。さあ、我の元に来るが良い。浮世を離れ、天上へと昇れ』
背後で物音がした。四角く切り取られた壁。厳かに開かれていく。
その先に俺が見たものは。




