五、うしなう
敦盛と俺は口を聞かず、目もろくに合わせられないまま、美術室の前に立った。
渡り廊下には鳳仙の死体があり、葵と、角材を持った男子生徒の死体が新たに転がっていた。触れた葵の体はまだほんのりと熱を持ち、つい先程まで彼女は生きていたのだと理解した。角材でしたたかに殴られた頭は大きく陥没して、茶髪は赤髪に変わっていた。
旧校舎に入って間もなく、狐『だった』誰かが死んでいた。やはりそれは同じ高校の制服を着た男の子だった。彼も重い物で頭を殴られたような形跡があり、外れた面はバラバラに砕けていた。それを見た俺達は、苦虫を噛み潰したような顔しかできなかった。複数の血痕が幾重にも重なり、その一つは点々と、廊下の先に続いていた。そして非常扉の近くで、ぷつりと途絶えていた。
旧校舎も、初めに比べて随分静かになっていた。美術室までの間、誰かに出会うことも、悲鳴が聞こえることもなかった。そしてその代わりに、死者の数は明らかに増えていた。俺達が新校舎にどのくらいの時間滞在していたのかはわからないが、その間に状況はがらりと変わっていた。最初に俺を襲った葵が死に、桔梗を襲った飛燕も死に、残っているのは俺達三人と、あとは誰だろう?
美術室の付近は、静かだ。敦盛が何も言わず、少しだけ扉を開いて中を覗いた。暗くてよく見えない。物音はしない。
「…委員長?」
敦盛の声は室内に掻き消えた。桔梗からの返事はなく、音を立てないように扉を全開にする。
教室は、無残な姿に変わり果てていた。
桔梗が仕掛けたトラップは全てが発動したのか壊されたのか、ぼろぼろになって部屋中に散らばっていた。
「桔梗!」
敦盛は今度は大声で、彼女を呼んだ。やはり返事はない。彼女の策略通りこの部屋に入った誰かが罠にかかり、その間に脱出したのだろうか。意を決して、二人同時に室内へ歩む。
足元の鉛筆や彫刻刀を蹴散らす騒音だけが響き渡る。千切れたタコ糸がそこらじゅうにぶら下がって、視界を塞ぐ。目指すは隣の準備室だ、そこが桔梗の最後の砦。
引き戸を開けた瞬間、言い得ぬ異臭が鼻をついた。本能が警鐘を鳴らし、全身が震えた。
「…やあ、やっと会えたね、綾」
ゆらりと影が揺らいだ。準備室の真ん中で、教卓の上に座る人影。聞き覚えのある声は、上気したように上ずっていた。
「待ちきれなくて、つまみ食いしちゃったよ。極限まで我慢してご馳走を味わう方が、僕としては好きなんだけどねぇ」
派手な明るい髪が窓から漏れる光に反射した。水無方蘇芳は、傍らに誰かを抱えている。蘇芳に肩を抱かれ、四肢は人形のように垂れ下がり、うなだれた頭から伸びる乱れた二本の三つ編み。
「き、きょう…?」
敦盛が、俺を押しのけて一歩前に出た。ちらと興味なさげに敦盛を一瞥した蘇芳は、桔梗の体を無造作に捨てた。
「なんだ、敦盛もいたんだ。なかなか美味しかったよ、桔梗さんの血。甘くて、いい匂いがした」
見れば蘇芳の口元は、べったりと血で染まっていた。吸血鬼。その単語が頭に浮かんだ。にやりと笑う蘇芳の歯が、牙のようにも見えた。
敦盛が、その場に崩れ落ちた。
「嘘だ…嘘だろ…」
うわ言のように呟きながら、打ち捨てられた桔梗の亡骸に這い寄る。縋りつくように彼女の力無い体を抱き寄せると、声を上げて泣いた。喉が裂けるくらいの悲痛な叫びは、尾を引きながら空中に消えた。
彼女を殺めた吸血鬼は足元の二人など眼中に無いようで、教卓から優雅に飛び降りるとゆっくりと俺に迫ってくる。
「綾、君をずっと探していたんだ。君のじゃないと、僕の乾きは癒されない」
恍惚の表情で、女性を口説くように甘く囁き。動けず、目も逸らせない俺の顎をそっと掴み、愉悦に踊る瞳で。
「ああ、やっぱり、君の血はとても美味しそうだ」
「な、なにを、言って」
「さあ、僕を酔わせておくれ。君の中に流れる、極上のワインで」
視界の隅に、刃の煌めきが光った。もう駄目だ。俺は思わず目を瞑った。
しかし、その刃が俺に突き立てられることはなかった。突き飛ばされて、恐る恐る目を開けた。見えるのは敦盛の大きな背中と、その肩に下ろされた蘇芳の右手。
「…邪魔、しないでくれるかなぁ」
不機嫌そうに、蘇芳は敦盛の体からナイフを引き抜いた。見る見るうちに、敦盛の左肩から真っ赤な血が溢れ出てくる。腕を伝って滴り落ち、出来た血だまりは俺の靴を濡らした。敦盛の眼光が、穿たれた刃よりも鋭く光を放ち、蘇芳を正面に見据えていた。
「…ふざけやがって……俺は、お前を、絶対に、許さない…!」
「想い人を殺された恨みかい? それとも親友を守りたいから?」
「どっちも、だよ…!」
「怖いねぇ。でもお生憎様、僕は君に興味は無いんだ。大人しく、この舞台から降りてくれないかな」
敦盛が言い終わると同時に拳を繰り出した。しかし当たらない。
「おやおや、僕に刃向かうつもり? 悪いけど、無駄な殺しはしない主義なんだよねぇ。血が混ざって、味が悪くなるだろう」
「べらべらと、ほざきやがって!!」
肩の痛みが、敦盛の動きを鈍らせているのは明白だった。キレのないパンチは蘇芳にいとも簡単に避けられ、空振りの度敦盛の体は大きく傾いだ。俺は日本刀を手に、立ち上がった。
「敦盛、あとは俺が」
「下がってろ!」
しかし一喝されて、柄に添えた指が止まった。踏ん張り、視線だけで敦盛が振り返る。涙に濡れたその瞳に、逆らえないほどの気迫が滲んでいた。
「こいつは俺がやる。綾は手を出すな! これは俺の…俺の、戦いなんだ」
敦盛の目に浮かんだ何か、それは決意だった。俺にはわからない、わかれない覚悟というもの。桔梗を失い、絶望の果てに彼は、それを見つけた。
俺達のやり取りを見て、蘇芳が高らかに嘲笑した。
「ははは! 美しい友情ってやつかい! いいねぇ、反吐が出るよ。何もかもぶち壊したくなる。気が変わった、敦盛、君は僕が殺してあげる。ただし楽になんか終わらせないよ? 苦しんで、苦しみぬいて、死ね」
放たれた斬撃は、的確に敦盛の体を切り裂いていく。頬を、腕を、胸を、脇腹を、蘇芳の右手が舞い、通り過ぎた後には赤い線が刻まれる。至る所から血液が流れ、徐々に敦盛の命を削っていく。蘇芳はわざと致命傷を与えず、言葉の通り少しずつ彼を嬲り殺すつもりなのだろう。
敦盛はもう、立っているのもやっとなはずだった。それでも彼は果敢に、その拳を振るい続けた。たとえ何度空を切ろうとも、倍以上の傷を与えられても、瞳に宿る強い決心は揺るがず、彼を支えていた。
そして俺は。
馬鹿みたいにへたり込んで、何も出来ずにいた。頭が真っ白だ。全てを背負うと決めた敦盛の気持ちを、蔑ろにはできなかった。けれど、目の前で親友が確実に死に向かっていくのを黙って見ているのも、耐えられなかった。胸の中で、助けたいと見届けなければがせめぎ合う。蘇芳に殺された誰かのために、桔梗のために、俺のために、何度でも立ち上がる敦盛を想うことしかできないのか。悔しくて不甲斐なくて涙が止まらなかった。俺の辿り着けなかった、文と同じ場所に今彼はいる。戦う敦盛の背中は眩しすぎて、目が逸らせなかった。
突如、蘇芳の動きが止まった。対峙する敦盛はもう虫の息だ。膝に手を付き、全身で荒く呼吸を繰り返す。蘇芳は笑っていなかった。どこまでも冷めた顔で、敦盛を見下ろしていた。
「…飽きちゃったなぁ。もう、終わりでいいかな。喉も乾いたし」
事も無げにそう言うと、くるりとナイフを回して逆手に持ち直した。
「じゃあ、お疲れ様、敦盛。カノジョと仲良く、ね」
それが、決着だった。
深々と胸に刺さった狂気の冷たさ。体が急速に熱を失う。
『ああ、俺、死ぬんだ』
怖かった。先に逝った奴らも、こんな恐怖を感じていたのだろうか。
ふわりと体は宙を泳いで、まるで無重力の中にいるように、何も感じない。不思議と体の痛みは消えていた。ただ少しだけ心地良い浮遊感だけが、あった。視界が少しずつ失われる。倒れる瞬間、呆然とこちらを見る綾の顔がぼんやりと瞳に映った。
『綾、ごめん。約束、守れなくて、ごめん。謝れなくて、ごめん』
言葉は紡がれることなく、綾には届かなかった。
刹那の光。最期の瞬間、彼が光の中に見たのは、微笑みながら手を振る桔梗の姿だった。




