幕間 一族の結末
瑞樹の実家にあった古書によると、岩戸神社の御神体は神社とは別の場所、つまり岩戸と呼ばれる場所に安置されていたらしい。その上に学校が建てられたという文献も残っており、瑞樹はこの旧校舎がその場所であろうと思っていた。
瑞樹の一族にとってその御神体は何よりも大切なものだった。なんとかしてそれだけでも取り戻そうと画策した時期もあったが、龍波の一族にことごとく妨害され、その願いが叶うことなく、学校は廃校となり、その場所は龍波の一族の私有地となった。瑞樹の曽祖父の妹も、同じように御神体を手に入れたのだろうかと、瑞樹は考えたがそれは無いだろうと首を振った。月読に選ばれてしまえば、御神体を持ち出す必要はなくなるのだ。でも、それが出来なかった理由がある。
瑞樹は傷ついた体を引きずって、地下の岩戸へとたどり着いた。古い金庫のようにその扉が鎮座している。ダイヤル式の錠が三箇所に設置されており、その三つを決まった手順で回さなければ扉が開くことはない。無論、爆薬やその他の手段で扉をこじ開けることはできるのだろうが、岩戸の大きさがどれぐらいかわからない以上、そう言った強硬手段は取れず、ただ開かずの間として安置されていた。
瑞樹はダイヤルを回し、その封印を開いた。
むっとする空気にカビ臭さと同時に水の匂いを嗅ぎとった瑞樹は、不意に走った悪寒に嫌な想像を覚えた。
ゆっくりと岩戸に入り込むと、想像は現実となったように、一人分の遺骨が転がっていた。そして、瑞樹は遺骨の後ろにある物を見て、息を飲んだ。
崩れ落ちた土砂。そこには祭壇があると祖母に聞いていた。祭壇の上に御神体が祀られていると。しかし、祭壇などは無く、土の塊がその場を埋め尽くしていたのだった。
がくりと膝が折れ、その場に座り込んだ瑞樹は今までの全てが徒労であったことを悟った。持ち出すべき御神体は無く、自身は既に体力の限界に近い。目の前の遺骨も同じだったのだろうか。恐らく目の前の遺骨は曽祖父の妹。ツクヨミとなった彼女は、御神体を持ち出そうとした。しかしこの現状を目の当たりにしたのだろう。
備品庫から持ち出した小型の懐中電灯を点けて、瑞樹は周囲を見渡した。四畳ほど残った室内の石壁には無数の文字が刻み込まれていた。言葉の一つ一つに息を飲む。その言葉は彼女の悲鳴そのものだった。
「助けて」「殺される」
まるで呪詛のように刻みつけられた、おびただしい怨嗟、恐怖、そして絶望。そのどれもが望まぬ戦いに送り出され、友を殺し、後悔し、そして終着点にたどり着いた末路のように見えた。彼女がいったい何を見て、何をしたのかはわからない。でも、瑞樹にはその姿が文と重なって見えていた。人を殺す。ただそれだけの事は、何よりも重く、人の心を押しつぶすのは容易な事で、耐え切れる人などいないのだと。
瑞樹は白骨となった亡骸のそばに歩み寄り、そっとその頭蓋を撫でた。それは全てを許すような優しい手つきだった。
不意に落とした光の先に、壁に書き込まれた文字とは異なった文章を見つけた。それは彼女の手記であり、この月読の儀の真実であった。
全ては無駄であった。徒労であった。残り少ない自分の命がこぼれ落ちていくのを感じた瑞樹は、せめてこの手記だけでも書き留め、誰かに、文に託すことしか考えられなかった。幸い生徒手帳は胸ポケットに有り、ペンも手元にある。
手記自体は短く、要点をまとめた瑞樹は呆然とその場にへたり込んだ。後は、文が追いつくのを待てばいい。
聞こえた足音に顔を上げた瑞樹は、その表情を曇らせた。目の前にいるのはあの艶やかな黒髪を持つ文ではなく、彼女が今一番会いたくない青年だったからだ。
『ああ、私の全ては終わったのだ』
瑞樹は小さく息を吐ききった。
「探しましたよ。瑞樹さん」
本来ならば踏み入ることの無い人間がこの場にいる。この岩戸は御子の血を引くもの以外は踏み入れてはならない神聖な場所だった。だが、岩戸の意味が無くなった今、それは古い慣習以外の何物でもなくなった。
龍波は瑞樹を舐めるように見つめ、その奥の崩れ切った岩戸の様相を確認し、ひとり納得したように頷いた。
「なるほどねぇ。岩戸の事は知ってましたけど、ふーん、御神体は土砂の中。ふふ、徒労でしたね」
瑞樹から返す言葉は無かった。龍波は彼女に無視されたように感じ、言葉を重ねた。
「僕の家もずっと御神体を探していましてね。失われた伝承。つまり、この岩戸を開ける暗証番号を探していたのですよ。けして口を割らない瑞樹さんの一族。まあ、どの道、岩戸に近づけない瑞樹さんの一族は暗証番号を盾になんとか生き延びていた。まあ、それもこうなってしまっているのでは無意味でしたね」
くつくつと喉を鳴らす龍波は、立つ力もなく座り込んでいる血まみれになった瑞樹を見下ろした。
「まあお礼ぐらいは言いますよ。どうもありがとう。これで君たちのような馬鹿馬鹿しい一族と縁を切れる。ゴミが町に落ちているんですから、掃除しないといけませんよね?」
ざわりと冷たい風が龍波の首を撫でた。その感覚に一瞬瑞樹から視線をそらし、再び彼女を見た龍波は、瑞樹の目が自分を嘲笑っているのを感じた。
「何がおかしいんですか?」
「いや、あなたって本当に馬鹿なんだなって思って」
「どう言う意味だ?」
見下すような瑞樹の言葉に、龍波の目に殺意がこもる。
「龍波君、自分だけは助かるなんて都合のいいこと考えてるんじゃないの?」
瑞樹の言葉は龍波にとって的はずれなものに聞こえた。それも当然だった。彼は"自分だけは助かる"と確信していた。しかし、真実を知った瑞樹からすれば、それは余りにも愚かで、ありえないことだった。
「何を言い出すかと思えば、そんなことですか。意外と子供なんですね瑞樹さんも」
生死をそんなことで済ます龍波に、瑞樹の今の気持ちはわかるはずもないと彼女は感じた。全てが手遅れになった今、彼が生き残る術はもう残されていない。
「子供が大人のふりをしても子供のままだよ」
瑞樹の言葉の一つ一つが龍波の気を逆立たせる。口を開くのがやっとの状態の瑞樹が、龍波に対して取れる行動は命乞い以外何もないはずだった。ほんの少し彼女の体を傷つければ、今までの傷と合わせてその命を絶つことは容易い。
なのに、この余裕はなんなのだろう? まるで彼の父が彼に対して向ける視線のように、愚弄される感覚を龍波は感じていた。ざわりと耳元で何かが囁いている気がする。
「大人の世界を知りもしないお前が、それを言うのか?」
大人たちの会合に何度も顔を出し、父の手腕を見てきた自分。そして既に何人かの顔役とパイプを繋ぎ、次期当主として期待されている自分。同学年の、いや社会人と呼ばれる大人たちよりも高い位置にいる自分を、まるで背伸びした子供と言い切る瑞樹。
「子供だって言ってるの。幼すぎるのよ。あなたは生きてここから出られない。もちろん私も」
確信を持った瑞樹の言葉は、龍波を一瞬ひるませた。しかし、龍波は我に返ると、自分の優位性を再確認した。
「僕がこの儀式の勝利者となるのは決まっているんだよ。元々この儀式は」
「そう。天照の御子の婚約者を決める儀式。元を正せば、ただの闘技大会。あなたの一族がその在り方を歪めるまでは、殺し合いなんて起こらなかった」
「歪める? それよりも婚約者ってなんのことだ?」
「龍波君。何も知らないようだから教えてあげるけど、この儀式は君が思っているようなものじゃない。ただ殺し合いをさせて、誰一人生かさない呪いでしかないの」
「呪い? 馬鹿馬鹿しい。誰ひとり生き残らないのなら、月読はどうなる?」
「龍波君。月読様を見たことある?」
「あるさ。君だって見たことがあるだ……まさか!?」
「その"まさか"よ」
月読祭に現れる月読様はその素顔を明かさない。すなわち、その中身が重要なのではなく、その身にまとう仮面や衣装こそが月読様であるという証拠。そして、龍波自身がこの殺し合いを出来レースと言った通り、実際にこの町の権力を欲しいままにしてきたのは、彼の一族に他ならない。ならば、月読様とはなんであったか。
「この戦いの勝者は、皆殺されたんだと思う。周りを見てみて」
壁一面に広がる怨嗟の声、呪いのように書き連ねた呪詛の言葉。龍波はなにかの模様だと思っていたそれが、全て彼の知る言語であることに気がつき、その重苦しさに足がすくんだ。動くこともままらない。
「勝者なんていない。殺し合いには意味がない。でも殺さなければ終わらない。月読様は形だけの人形。龍波君、あなたがこの場に来た、それ自体が君に対する判決でもあるの」
判決。その言葉に龍波は固唾を飲んだ。龍波の中の古い記憶がまざまざと蘇る。
『あれは使えん。弟の方が役に立つ』
深夜、父が話していた言葉だ。その言葉があったからこそ龍波は、自身の能力が優れていることを証明するために、学業やスポーツ、あらゆる面で努力を重ねてきた。慣習的に月守高校に進学したが、県内の進学校に主席で入学するだけの実力もあった。それだけ優秀な自分に対する判決が、死であるとは到底受け入れられるものではなかった。
「嘘だ。父さんは僕を右腕にすると、だから僕は、俺はこの殺し合いに参加した。必ず勝たせる。その為の駒も俺の為に用意してくれた。そうだ。俺には狐がいる。あれがいれば、俺は自由だ。俺は死なない。父さんが俺を見捨てるはずがない! 俺は有用だ。俺は有用だ。俺は」
「狐は死んだよ」
瑞樹の冷えた言葉が、龍波の頭を空白にした。
「もうあなたを守ってくれる狐はいない。私を瀕死の状態にして、トドメは自分で指すつもりだったんでしょ? おかしいと思ってた。決定的に殺される瞬間が何回もあった。なのに止めを刺さずに逃げる機会をくれていた。だから、たぶん君の差金だと思った」
「そうだ。だからお前はまだ生きている。そうだ。俺はお前が嫌いだったんだ。最下層の人間のくせに、俺の文さんの隣に立ってるお前が憎かった。文さんを汚すお前が」
「それは私も同じだった」
瑞樹の眼光が強く龍波を射抜いた。それは余りにも強く、龍波は自分の優位を忘れ後ずさった。
「文は私にとって、救いで、だからこそ手の届かない人だった。大切な人。誰よりも。あなたなんかがその汚い目で、汚い手で触れていい人なんかじゃない」
それは一種の同族嫌悪だった。それを瑞樹は先に知っていた。自身のどうしようもない感情に気がついた時、何故龍波を嫌うのかがわかった。そしてこの瞬間に、龍波もそれに気がついた。
「お前、も、文さんのことを?」
「好きよ」
即答だった。嘘偽りのない真っ直ぐな感情は、龍波に届いたが、すぐに歪んだ。
「気持ち悪い」
「お互い様ね」
問答はこれで終わりとなった。
龍波は一刻も早く、この気持ち悪い生き物の息の根を止めなくてはならないと感じた。神が与えた男女の性という理を乱し、生きるに値しない一族の生き物。これを殺すのは天啓を受けた自分の一族の役目。龍波の一族こそがこの町の支配者だ。統治者だ。偽りの神である天照を退け、真の神である月読を中心に据えた一族こそが、神聖であり、絶対だ。
龍波の耳元にはざわざわと囁きが聞こえていた。自分の中にある黒い塊がその囁きに同調するように、彼の鼓動を早めていく。どくりどくりとざわつく感情に頭が真っ赤に染まっていく。
『それで? お前はどうしたいのだ?』
「うるさい」
『ほう。そうか、その後はどうする? これで手詰まりというわけでもあるまい』
「うるさい」
『あの娘にどれほどの価値がある?』
「うるせーってんだよ!」
龍波は父に向ける怒りをその感情のまま吐き出していた。口うるさく、人を小馬鹿にして、嘲る父親をなぶり殺していた。その頭を掴み、何度も、何度も壁に打ち付ける。手が赤く染まろうと、鼻の奥に鉄錆の臭いを感じようと、ざわめきが鳴り響こうとも、その衝動を止めることは出来なかった。
「黙れ、黙れ黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ!」
何度、その肉塊を叩きつけたかわからない。すでにそれは人の頭の形を成していなかった。龍波の右腕は赤黒く濡れ、異様な臭気が一面に広がっていた。
もう腕があがらない。なのにこの肉塊はまだ自分を嘲笑っている。
「やめろ。やめてくれ」
かつて瑞樹という少女だった者は、もう人の形ではなかった。彼女の髪も瞳も生前の輝きを無くし、二度と宙を仰ぐことも出来ずにただの肉塊となった。そして、龍波自身も瑞樹を殺せなかった。ざわざわと響く声はさっきよりも大きくなっている。この場に詰められた怨念が形なったかのように、彼の耳にはっきりと聞こえている。
『どうして殺したの?』
『死にたくない』
『助けて』
『龍波君、君だって私と同じなんだよ』
「いやだ。いやだ。俺は、俺は生き残って、文さんと」
全身がぐしょぐしょに濡れていた。汗も涙も何もかもが彼の身体から排泄されていた。
「こんなところはダメだ。こんなところはダメだ」
這いつくばってなんとか、岩戸から出ようと前進するが、一歩一歩が果てしなく遠い。光は見えるのに、出口まで数歩もないのに。
出口まであと少しの所で龍波の上に影が落ちた。龍波は影を見上げた。
長く、美しい黒髪が風もないのに揺れているように見えた。後光が差すように輝いて見えたものは、彼にとっての……




