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徒花  作者: 似櫂 羽鳥
第二章
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17/27

四、約束と過ちと

 それからも重い足を引きずりながら旧校舎を目指す。生き残りを探すのは、もう諦めていた。いるかどうかもわからない人間を探すよりは、確実に居場所のわかっている友を救うのが先決だと、敦盛に諭された。確かのその通りで、桔梗を心配する敦盛のためにも先を急ぐことにしたのだ。

 しかし運は俺達に向いてくれないらしく、またもや足止めを食うことになる。

 階段を降り、一回の廊下に踏み出したところで、俺の背筋を寒気が伝った。静けさの中に、ぴりぴりとした空気。鳥肌が立ち、足を止めた。後ろからついてくる敦盛を慌てて制止する。彼は何も感じていないのだろう、怪訝そうに俺を見た。

「なんだよ綾」

「ちょっと待て。なんか…嫌な感じがする」

「嫌な感じって…誰かいるのか?」

「…わからない」

「きっと疲れてんだよ。早く委員長のとこ戻って、仮眠でもとろうぜ」

 敦盛は俺の制止も構わず、廊下を進む。何も起こらない。しかし俺の警戒心は増すばかりで、一歩進むごとにきょろきょろと辺りを見回していた。この感覚、どこかで感じたことがあるのだが、それが思い出せない。つい最近のような気がするが、いつだったろうか。何で、俺はこの感じを知っているのか。

 余所見をしていたら、急に立ち止まった敦盛の背中に顔からぶつかった。

「うわっ」

 何事かと、敦盛を見た。彼は鳩が豆鉄砲を食らったようにあんぐりと口を開け、呆然と立ち尽くしている。その視線の先を追って、俺の思考も凍りついた。

 狐の、面だ。

 そうだ。この感覚は、旧校舎で狐面に会った時とよく似ていた。むしろ同じだった。緊張感を通り越し、一歩も動けなくなる、冷たい殺気、だ。

 ぱくぱくと、敦盛が口を動かした。

「な、なんだよ、あれ」

 視線は狐から少しも逸らせない。強大な思念のように、俺達の目を釘付けにする。

「わからないんだ。文を探してる時、旧校舎にも同じのがいた」

「わ、わからないって、とにかくやばいんじゃ」

 ごくりと唾を飲み込んで、じっと狐の動向を探った。あの時と同じように、闇の中にぼんやりと浮かんだ面は動く気配がない。しかし確実に俺たちを視界に捉えている。たしかあの時は、銃声が鳴って、気づけばいなくなっていた。だがここでは銃声はおろか音が聞こえてくることはなく、狐がいなくなることもない。

 全く動かない狐に、敦盛は意を決したように俺へ囁いた。

「襲ってこないってことは、通ってもいいってことか?」

 狐の先には渡り廊下がある。一本道の廊下、狐の前を通るしか道はない。行くしかないのだ。

「…止まってても仕方ない、行こう」

 俺達は静かに、静かに、一歩踏み出した。また一歩、狐は動じない。狐の反対の壁際を伝い、そっと進む。狐が真横まで来て、そのまま通り過ぎ、敦盛と目が合って、走り出そうとして。

 次の瞬間には、床に倒れ伏していた。

「っ、かはっ」

 何が起こったのか。息ができない。視界いっぱいに狐の顔が見える。

「綾っ!!」

 敦盛の声が聞こえ、胸の圧迫感が消えた。刹那の後、俺は狐が目にも留まらぬスピードで俺に体当たりし、馬乗りになったと理解した。開放されたのは、敦盛が狐を力ずくで押しのけたからだ。

 壁際に転がった狐は、すぐさま起き上がった。間髪入れず、残像を残して俺の前へ。本能的に、刀を顔の前に突き出した。鞘にがきんと何かがぶつかり、右腕に衝撃が走る。鋭い切っ先が、すぐ目前にあった。少しでも反応が遅れていたら───背筋が凍りついた。

「くそがぁっ!」

 激しい怒号と共に、敦盛が躍り出た。

「綾から、離れろぉっ!」

 勢いのままに殴りかかってきた敦盛を、狐は身を翻して交わした。敦盛の拳は虚しく空を切り、止まれずによろけた敦盛が焦燥に、ぎり、と歯を鳴らした。

 狐の猛攻は止まらない。手にした小刀で俺を殺そうと迫り、牽制する敦盛をひらりと避ける。同じ攻防を何度も繰り返し、着実に俺達は追い詰められていた。目前に見えていた渡り廊下への扉は遥か遠く、反対側の端まで来てしまった。肩で息をする俺達と違い、狐は最初と何一つ変わらないままで、小刀を振るい続ける。幾度もその刃を鞘で跳ね返し、握った腕にはとうに力など入らない。新たな一撃を受けて何とか押し返したが、限界を迎えた俺の右手は、とうとう刀を取り落とした。もう、次はない。次の一撃で、俺は…

 冷や汗が、額を流れる。全身の毛が逆立ったように、ちりちりと肌が痛い。敦盛の反撃を受けて、かわした狐が俺から少しだけ距離を置いた。僅かな時間で、考える。何か、何か道はないか。一瞬でいい。奴に隙を与えられるような、狐が予測できない動きは。

 見つけた。

 瞬きの速さで目を閉じ、開いた。狐が小刀を振り翳し、走る。同時に俺は後ろ足を蹴った。限界を超えた体は、どうしてか軽い。ああ、これが火事場の馬鹿力ってやつなのか。冷静すぎて、そんなことを思った。向かってくる俺を見て、狐が少しだけ怯んだように見えた。

 そのまま勢い任せに狐の腰元をがっちりと掴み、地面に飛んだ。黒い布で覆われている狐の胴体は、見た目よりもだいぶ細い。狐と俺はもつれ合い、床をごろごろと転がった。その好きに今度は俺が馬乗りになり、刀を握る両の手首を空中で掴んだ。当然のごとく狐は全力でもがく。だが俺は両手でしっかりとその腕を握り、肘を伸ばしてその場に留めた。狐は力こそ強いものの、衣服の下の手首は華奢だった。

 追いついた敦盛が、飛び掛りながら俺が握った腕を狙った。

「はああっ!!」

 ナックルを嵌めた敦盛の右ブローが、正確に狐の腕を捉える。それは俺の手ごと吹き飛ばすくらいの衝撃で、骨が折れる生々しい音が聞こえた。握られた小刀は狐の手から離れ、乾いた金属音をさせながら廊下を滑った。

「敦盛、武器を!」

 一瞬そちらに気を取られ、狐に蹴り落とされた。脇に爪先がめり込み、もんどりうって転がるが、もう恐くはなかった。狐の両腕は確実に折れている。もしも他に武器を持っていたとしても、あれでは握ることすら不可能だろう。狐はよろけながら立ち上がり、両手をぶらんと下げたままでそれでも俺に向かって走り寄ってきた。だが先ほどまでのスピードはもうなかった。

 小刀を拾った敦盛が、俺を追い越して狐の胸倉を掴んだ。

「へっ、終わりだな」

 狐は敦盛に掴み上げられ、しかし腕を使えずじたばたともがくばかりだ。俺達の勝ちは確定していた。それなのに。

 敦盛が、おもむろに奪い取った小刀を振り上げた。

 そんな。駄目だ、やめろ。

「あ、敦盛!」

 喉がからからになって、うまく声が出ない。どっと嫌な汗が全身を濡らした。

「駄目だ、敦盛っ!」

 叫んだ時には、もう遅かった。

 血しぶきと、突き立てられた煌き。痙攣する狐の体。そして止まる。佇んだ敦盛の瞳は、文と同じ色をしていた。反響した俺の声が霧散して、静寂。

 震える両足で何とか立ち上がり、敦盛の元に駆け寄った。今度は俺が、敦盛の胸倉を掴み上げた。

「なんで! なんで殺したんだよ!」

 なぜか涙が止まらず、泣きながら喚き散らす。

「あいつはもう戦えなかった! 放っておいても大丈夫だったのに! どうして殺す必要があったんだよ!」

 敦盛は答えず、俺から目を逸らした。何も言わない敦盛に俺の怒りは高まっていく。力なくうなだれる敦盛の首筋を、何度も、何度も揺さぶった。

「なんでだよ! どうしてなんだよ! 殺さないって約束しただろ! 誰も、誰も殺さないって!」

「…うるせぇ!」

 敦盛はうんざりしたように吐き捨て、俺の手を強く弾いた。

「約束はしたけど、あれはどう見たって敵だろうが! クラスメートでも何でもない、ただの敵だ! たとえ動けないからって、そんなあぶねぇ奴そのままにしとく方がおかしいだろ!」

 敦盛の顔が満ちる怒気で真っ赤に染まる。

「殺らなきゃ殺られてたんだよ! 大和の時みたいに、逃がしたらまた襲ってくるかもしれない! そしたらまた戦うことになるんだぞ! なら殺れる時に殺った方が確実だろうが!」

 敦盛が何を言っているのか、理解が出来なかった。いや、頭ではわかっているのに、言葉がまるで入ってこない。俺の上を滑って、闇に消えていくように。そして声を張り上げる敦盛を、恐ろしいとまで感じてしまった。

「だからって…!」

 小さくからん、と物音がして、同時にそちらを見た。

 赤に染め上げられた狐の体。面が外れて、傍らに転がっている。閉ざされたその下の顔を見、俺達は言葉を失った。

 青ざめた、まだあどけない少女の顔が、そこにあった。光のない両目が俺達を見つめている。何か言いたげに僅か開かれた唇は、言葉を紡がずに赤い液体だけを吐き出し続ける。俺はふらふらと少女の元に駆け寄り、体を覆う布を取り去る。そして知る。彼女は俺のよく知る、俺達の学校の制服を着ていた。戦っている最中は無我夢中で、そんなことに気づく余裕などなかった。

 結局、俺達は仲間を殺したに過ぎなかった。

「…っ……ふざけんなぁぁぁっ!!」

 敦盛が天を仰ぎ、吼えた。この光景をどこかで見てはほくそ笑んでいるであろう、誰かに向かって。

 彼女の手首が砕けた時の音と感触が、鮮明に残っていた。振り下ろされた刃の鈍い光も、冷たい敦盛の眼も。

 虚空に向かって叫び続ける敦盛の頬を、幾筋もの雫が流れていく。赤く充血した瞳から零れるそれは、まるで血の涙のようだった。

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