幕間 招かれざる客
蘇芳は文を追う事が出来なくなった事を理解した瞬間、瑞樹との戦闘からあっさりと身を引いた。
『無駄な殺しはしない主義でね。まあ、メインは魚より肉の方がいいわけだし』
と難解な捨て台詞を残して、その場から立ち去った。一人残された瑞樹は全身で息をしながら、その疲労感を耐えていた。呼吸が元に戻った瑞樹は、慎重に教室から外に出る。校舎は嫌なぐらいの静けさに包まれていた。文を探しに行くことを一瞬考えたが、それよりも先にする事があると彼女は、秘された地下室へと足を向けていた。
不意に感じた殺意に、瑞樹はその場を飛び退いた。ぶんと空気を薙ぐ音で、それが刃物であることを察した瑞樹はがむしゃらにスタンロッドを振り回し後退した。先刻の蘇芳との戦闘が、辛くも彼女の危機察知能力を高めた結果と言える。
距離を取った瑞樹は相手の姿を見て一瞬呆然とした。
「キツネ……?」
瑞樹自身は自分を信心深い人間だと思ったことは一度もなかった。むしろその逆で、一族の御神体の為に、辛酸を舐めさせられた幼少期、そして今の生活に対して打開策を持たない父も母も、その祖父母達にも怒りに似た感情を持て余していたからこそ、その当て付けのように神だとか仏だとかそう言った物を、切って捨てる勢いでないがしろにしてきた。それなのに、何故? と彼女は思わざるを得ない。
目の前にいるのは神の使いである狐だった。人の形をし、その手には小刀を持つ姿は幼い頃、昔話に聞いた悪い子供を懲らしめる狐の姿と重なって見えた。
まさか、信心をなくした子供を殺しに来たのかと瑞樹は感じた。
「馬鹿な」
そんなことは有り得ない。神はいないし、神がいなければその使いもいるわけがない。目の前にいるのは、間違いなく人でしかない。迷いを振り切った瑞樹は相手を正面に見据え、右手に持ったスタンロッドを握り直した。
「誰の差金かしら?」
緊迫する両者の空気にすべり込ませるように、瑞樹の声が響く。しかし、狐は言葉を発することなく、その間合いをジリジリと詰めるだけだった。
「ふーん。やっぱり私は招かれざる客だったってことね。運良く生き残ってるものだから、強制的に殺すことを思いついたってわけ?」
逃げ道などどこにもなかった。戦うしかない。文がそうしたように、自分も目の前の人間を殺すしか道はないのだと、胸の奥に染み入る水のような理解が彼女に去来した。
「いいわ。私だってこんなところで、こんな障害で立ち止まってられない。私はね、信心深い家族を馬鹿だと思うけど、それ以上に愛しているの。なんとしても、私達はまともな生活に戻る!」
瑞樹は自身にそう言い聞かせると、その足を前に踏み込んだ。これが自分達家族の第一歩だと信じて。
その頃、一人の少年は渡り廊下に打ち捨てられた死体に怯えながら旧校舎へと足を運んでいた。新校舎にいた彼は、何度も見知った顔に出会い、その全てが彼に牙を剥いてきた為、恐怖に押し潰されそうになりながら、手にした巨大な角材を振り回し、難を逃れてきた。新校舎は様々な足音や悲鳴が飛び交っていて、彼の恐怖心を煽り続け、少しでも安全そうな旧校舎に逃げてきたというのが本音だった。旧校舎に立ち入った彼は、木造の校舎に怪談話を思い浮かべたが、新校舎に比べ静かだという事に気がつき、肩の力をやっと抜くことができた。
大工である父が何故こんなに馬鹿でかい角材を武器として与えたかなど、少年の知り及ぶところではないのだが、柊少年は父がこの角材を持たせてくれた事に今更ながら感謝していた。茜の蘭の矢から守ってくれ、その後も襲いかかってくる同級生や先輩方からも自分を守ってくれたこの角材は、父の手のひらのように暖かく無骨で、これを抱きしめるたびに、安心が体中に広がっていく。
「いつまで続くんだろう」
気を抜けば眠ってしまいそうなほど、神経も参っている。早くこんなことは終わって、父や母の元に帰りたいと願うばかりだった。
とぼとぼと廊下を歩いていると、金属同士がぶつかるような甲高い音が響いてきた。
「嫌だな。また殺し合いかな」
怖いという感覚はもうすでに麻痺してきたのかもしれない。ゆっくりとその場を離れようとした瞬間、飛び出してきた人間にぶつかった。
それからはただ混乱が彼の頭を埋め尽くすだけだった。飛び出してきた人は血まみれで、それを追いかけてきた人は狐だった。悪い子を懲らしめる狐。神様の使いの恐い怖い狐。逃げようと咄嗟に踏み出した足は、彼の足元に転がった誰かにつまずき、バランスを取ろうにも両手は角材でふさがっている。
「ちょっと、待っ」
柊はバランスを崩し、そのまま廊下に転がった。そして、その瞬間、彼はその手に硬質な手応えを感じた。
瑞樹には何があったのかわからなかった。明らかに戦闘慣れした狐面に、真っ向から挑んだものの、それは子供が大人に喧嘩を売るようなもので、あっという間に形勢は不利になる一方だった。左腕は裂かれ、足は立っているのもやっと。何度蹴られたり殴られたりしたかなど、数えることすら出来ない状況で、結局は逃走の二文字しか選択の余地はなかった。誰かにぶつかり廊下に伏して、これで自分の人生も終わりだと予感し、顔を上げた瞬間、狐面はその頭部に角材をめり込ませていた。面は砕かれ意思を無くした瞳が虚空を見つめながら倒れていった。
助かった。それだけはわかった。偶然居合わせた誰かによって、自分は助かった。
「うう……」
自分を助けてくれた少年は情けなく廊下に転がっていて、彼に不釣合いな大きな角材を手にしていた。まるで家を支える大黒柱を手にした少年は、泣きべそをかきながらゆっくり起き上がった。
「わ、わわわ! ころ、殺さないで!」
少年の目には混乱と恐怖が浮かんでいた。瑞樹は不意にその様子がおかしくなって声を立てて笑った。瑞樹はその少年の事を自分を助けた騎士のように感じていたのだが、実際は気弱な少年が偶然自分を救った結果に過ぎなかった事に思い至った。
「え? えぇ?」
突然笑い始めた瑞樹に柊はどうしたらいいのかわからずに、困り顔のまま苦笑いを浮かべた。
「ごめんね。なんか自分がバカバカしくなっちゃって。私は姫宮瑞樹。助けてくれてありがとう」
軋む体を起こしながら、瑞樹は血まみれの手をスカートで拭うと少年に手を差し伸べた。
「あ、はい。よくわからないけど」
柊はおずおずと瑞樹の手を取って立ち上がった。
「ボ、ボクは葦名柊です」
「そう。柊くんか」
瑞樹は不意にこの少年を生かしたいと思った。この柊少年は何も知らぬまま巻き込まれたに過ぎない。親からは体に合わないサイズの武器を与えられ、状況もわからないまま人を殺せと命じられ、逃げ惑っていたに違いない。
ふいに綾の事が頭に浮かんだ。さっき文と話した時に、綾は脱出口を探すと言っていた。もしかしたら彼は既に見つけたのかもしれない。瑞樹自身も御神体を手に入れたら、文と合流し綾の元に向かうつもりでいた。
「柊くん」
「はい」
「新校舎に行ったほうがいいと思う」
「でも、あそこは」
「そこで、『高天綾』って人を探して。私の友達なの。彼ならばきっと逃げられる場所を見つけてるはずだから」
「ここから出られるんですか!?」
柊の目は大きく見開かれ、その声は生き生きとしていた。そうだ。彼はこんな殺し合いに参加するべきではなかった。
「うん。きっと出られるわ。私はこっちでやることがあるから、早く行きなさい」
「はい。姫宮先輩。ありがとうございます!」
柊少年の姿を見送った瑞樹はふっと息を吐いた。本当はもう体中切り刻まれて、何度くらったかわからない打撃に立っているのもやっとだった。きっと文は地下に来るはず。その文に御神体を渡して、なんとか生き残ってもらわないといけない。
瑞樹は重い体を引きずるように、暗い地下へと降りていった。




