三、届かない場所
旧校舎へと急ぐ俺達を止める、人影があった。
鵜萱龍波。町一番の資産家の息子。勉強は出来るが、友達は少ない。女の子のような綺麗な顔立ちで、小学校の時は割といじめられっ子だったような記憶がある。眉目秀麗、しかし…性格には難あり。
「おや、綾くんに敦盛くんではないですか。そんなに急いで、どちらへ向かっているんです?」
そうだ、この人を小馬鹿にしたような口調。口の端はにやりと歪み、俺達を見下しているみたいだ。
敦盛が微かに舌打ちしたのを、俺は聞き逃さなかった。
「関係ねぇだろ。邪魔すんなよ」
「邪魔だなんて、人聞きが悪いなぁ。僕はまだ、何もしていないじゃないですか」
「こっちは急いでんだ。お前と話してる暇はねぇんだよ」
「おお、怖い怖い」
龍波は喧嘩腰の敦盛を軽くあしらうと、今度は矛先を俺に向けた。
「ところで綾くん。文さんには、もう会えましたか?」
ちり、と胸の奥が痛んだ。
「文さんは君を探していた。姫宮さんも一緒にね」
下卑た笑みが俺の心をざわつかせる。警戒しつつも、答えた。
「…会えたよ、一応」
「渡り廊下で、ですよね」
「…なんで知ってるんだよ」
「文さんに旧校舎の存在を示したのは、この僕ですからね」
ざわざわと、暗雲が広がっていく。
「君が旧校舎にいるのはなんとなく予想がついていましたから。文さんはきっと旧校舎に向かおうとする、それも予測済みです」
何が言いたいんだ。こいつは、何を考えている。
「君達二人が渡り廊下を通る。そう、それが僕の目的だったのですよ」
龍波の眼鏡がきらりと光り、その奥の瞳は深く澱んでいた。
「邪魔な筋肉馬鹿を、片付ける為に、ね」
「てめぇ、ふざけんじゃねぇ!!」
俺より先に、敦盛の恫喝が響いた。
全てが、龍波の謀略だった。互いを探す俺達が、立ちはだかる鳳仙を何としてでも排除すると見越して。結果、思い通りになった。
「奴を殺ったのは君ですか? それとも…いや、きっと文さんでしょうね」
龍波の声が頭の中で反響して、ひどくやかましい。こいつが教えなければ、文は渡り廊下など通らなかった。鳳仙を殺すこともなかっただろう。俺の目の前で。
こんな奴のせいで。
「うぐっ!」
気づけば俺の拳が、龍波の顔にめり込んでいた。その感触は思っていたよりも軽く、飛んできたボールを跳ね返すより造作もない。体も心も、一つも痛みはしなかった。
驚いた敦盛が二発目を繰り出そうとする俺の右腕を掴み、低い声で諌める。
「綾、やめとけ」
俺はこの上なく冷静だった。昂りすぎた感情は、もはや一線を超えて無に等しい。だが敦盛の必死な瞳を見て、腕を下ろした。
龍波は数歩よろけた後、しかし気丈に俺を睨みつけた。
「…ふふ、僕にこんなことをして、タダでは済みませんよ。君たちを殺すのなど簡単なのですからね。あまり僕に楯突かない方が身のためですよ」
「黙れクズ野郎」
「何とでも言うがいい。いずれ後悔することになるのだから」
鋭く龍波を見据える敦盛と、傍らに佇む俺。俺達の沈黙を怯えと判断したのか、龍波は饒舌になる。
「しかし…君たちは文さんの大切な肉親と、友人だ。君たちを今ここで葬ることも出来るけれど、そんなことをしたら文さんが悲しんでしまう。僕は彼女のそんな顔は見たくないのでね。君たちの態度によっては、生かしてやってもいい」
挑発するように、俺達の目の前を二、三度うろつきながら、ゆっくりと吐き捨てた。
「命乞いをしろ」
あまりにも単純で滑稽な脅迫文に、思わず笑みがこぼれた。
「僕に跪け。そうすれば、命だけは助けてやろう」
こみあげる笑いは、声になって溢れた。もちろん、龍波が黙っているはずがない。狼狽を押し隠し、俺を睨む。
「な、何がおかしい!」
それには答えなかった。ただ一言だけ、言い放った。
「…消えろ」
踵を返す。敦盛も龍波をちらと睨み、俺の後に続いた。
背中に龍波の叫びが刺さった。
「ふ、ふざけるな! この僕を侮辱して、生きていられると思うなよ! お前達に最初から未来などない、僕の勝利は約束されているんだからな! 必ず、必ず後悔させてやる!」
負け惜しみは、全部無視した。どこまでも哀れな龍波が可哀想で、虚しくて、馬鹿馬鹿しくて、振り向く気にはならなかった。歩いていくうちに龍波の声は遠ざかり、そして聞こえなくなった。
足音は二つだけ。俺と、敦盛だ。果たしてこの新校舎に、他の生き残りはいるのだろうか。今しがた龍波と対峙するまで、誰にも遭遇していない。姿はおろか、足音や声、気配さえも感じられない。不気味なくらいの静けさだ。
「なぁ、敦盛」
「何だよ」
歩きながら、ぽつりと呟いた。
「今、何人生き残ってるだろう」
御子の禊で選ばれたのは三十人と少し。俺と敦盛、文、桔梗、そしてさっき会った龍波を除いてちょうど三十人くらいになるだろうか。見つけた死体の数は新校舎、旧校舎を合わせて少なくとも二十以上。
子供でもわかる計算だ。きっともう、片手で数え切れるほどしか、残っていない。
改めて、何ともいえない虚無感が俺の胸に巣食っていく。文も然り、皆この殺し合いを是として、戦った。昨日まで友達だった誰かを、手にかけたのだ。
どうしてなのか。なぜそんなに簡単に、切り捨てられるのだろうか。理解が出来なかった。確かに月読の称号はとても魅力的だとは思う。だが、こんな惨いことをさせられてまで、勝ち得たいほどのものなのだろうか。この世の全てが手に入る、願いが何でも叶えられる、そんな御伽噺のような理想のために、こんなことを。
俺は自然と、立ち止まっていた。重い。色々なものがのしかかって、体が重くて仕方ない。
「どうした、綾?」
耳に透明な蓋がされたように、敦盛の声が遠くに聞こえる。目を伏せた。視界に腰の日本刀が映り込む。俺の持たされた戦う術はどうしようもなく重くて、禍々しく見えた。
自宅の道場の床の間に鎮座していた二対の日本刀。イザナギとイザナミ、父は俺と文を呼びつけ、こんな話をした。
『この二対は兄妹剣だ。兄のイザナギは妹を守り、妹のイザナミは兄を守る。決して分かたれる事のない強い絆で二振りは結ばれている。どちらが欠けても成り立たない。この二対とお前達は、よく似ている。互いを強め、互いを守る。二人で一つだ。お前達は弱い。力も、心もだ。その弱さを補うのが綾であり、文でもある。道に迷ったら互いを想い、助け合うんだ。己の弱さを恐れるな、お前達は一人じゃない。弱さは相手を守る刃になる。共に歩め、イザナギとイザナミのように』
まだ中学生だった俺は、父の言った言葉を半分くらいしか理解出来なかった。
小さい頃から何をするにも文と一緒だった。文は泣き虫で、いつも俺の後ろを追いかけてくるような子供だった。俺は子供心に、自分が文を守るんだといつも意気込んでいた。文の手をしっかりと握り、文の一歩先を歩いていた。
それがいつからだろうか、文は俺の手がなくても、一人で歩けるようになっていた。いつの間にか彼女は子供ではなくなっていた。勉強も、運動も、その容姿でさえも、気づけば俺を追い越して、俺が文の背中を追うようになった。唯一勝てるのは剣道の腕だけで、だがそれも誤差程度だった。
抜かれるのは正直悔しかったけれど、嬉しくもあった。兄として、妹の成長を喜ばないわけがないだろう。何より、俺よりもいい成績を修めたときに、満面の笑みで文が俺に自慢してくるのが楽しかった。逆に俺が抜き返すと、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛む。その顔を見るとなぜか心が痛んだ。文には、笑っていてほしかった。
文は何に対しても手を抜かない。全力で目標に向かっていく。テストで俺に負けた時はその後徹夜で勉強していたし、剣道の試合で成績が悪ければ早朝から自主練に精を出していた。歯を食いしばって、必死な表情で。その姿は、まるで夜叉が乗り移ったように鬼気迫っていた。無理をしすぎて、体調を崩すこともあった。
そんな文を見るのが辛くて、俺は頑張るのをやめた。俺が努力するのをやめれば、文はいつでも俺の前にいられる。自分を追い詰めなくても良くなると、思った。だから俺は、何に対しても諦めたり、逃げるようになった。喧嘩をしても昔と違って、俺が一歩引く。不本意な時もあったが、兄としてそれが最善だと割り切るようになった。
文は、そんな俺をどう思っているのだろう。多分文はそれを許さない。だからあの時も、逃げることしか考えない俺を叱ったのだ。弱さに甘んじる俺を、文は許せなかったはずだから。
文の強さは、覚悟したからだ。自分の道を進むと、望みを叶えると、その為にならどんな苦難も受け入れると、覚悟したからだ。
俺には、それがなかった。そして未だに、辿り着けない。




