幕間、迷い
どうして自分は昔からうまくいかないのだろう。文と綾はけして仲の悪い兄妹では無い。だが何かにつけて文は綾に向けて挑発的な言葉をぶつけてしまう。兄は何でも出来た。勉強も運動も、見た目だって都会の人のように整っている。唯一の欠点は音痴だということぐらい。完璧すぎる綾は文にとって良い見本であり、同時に自分の不出来を映す鏡だった。
兄に劣る人間にならない様に努力を続けた毎日。陰ながらの努力は功を奏して、文を優秀にした。兄に追いつきたかった文は事実、綾を追い越す勢いで自身を磨いた。傍らにいる鏡と同じ場所に立ちたかった。その思いは、いつの間にか親愛の情を追い越し、恋に変化していた。
けして結ばれることのない実ることのない愛情を、胸に押し隠してきた。だが、それは月読の儀によって叶わない夢では無くなった。月読となった者の願いは叶えられる。幼少より聞かされたその話は、半ば冗談だと思っていた。しかし、こんな殺し合いをさせるぐらいの状況に、文の心は揺れ動いた。
でも実際に人を一人殺した時、その感覚は無くなった。今もまだあの少年と鳳仙の肉の感触が手に残っている。自身が摘み取った命の重さが両腕を震えさせている。
『私は人殺しだ。もう彼のそばにいることなんて許されない醜い鏡だ』
廊下にうずくまった文は嗚咽を押し殺して泣いた。その肩を追いついた瑞樹がそっと抱いた。文は振り返り、瑞樹にしがみついた。その姿は難破した船から逃げ出した船員のように、必死で瑞樹の細い体を強く締め付けた。
「私、人を殺したの」
瑞樹は言葉を無くした。今の文にかける言葉が見つからなかった。
「私、もう綾に会えない」
瑞樹は「大丈夫だよ」の一言も言えなかった。文の思いは切実だった。恐らく綾は一人も殺してはいなかったのだろう。そして、渡り廊下に倒れていた鳳仙の遺体は文の手によるものだろうと瑞樹は感じていた。綾の性格からして、彼が人を殺すことは出来ない。たとえ自分に危機が迫ろうと、死の直前にいようとも、彼は刃を相手に向けることはしないだろう。そうする事で失われる何かを無意識のうちにわかっているのだから。そこが綾と文の一番の違いだと瑞樹は思っていた。
文は綾のそういった強さに惹かれている。文自身にもわからないであろう感情が瑞樹にはわかっていた。
ひとしきり泣いた文を引きずるように、瑞樹は空き教室に彼女を連れていった。怪我がないことを確かめると、瑞樹は文にペットボトルを渡した。
「これは?」
「文に追いつく前に備品室を見つけたの。そこで少しもらってきた」
「ありがとう」
うつむいて水を飲み下す文は明らかに憔悴していた。このままでは多分、次の戦いで致命的な傷を負う事が瑞樹にはわかった。
「少し、昔話をしようかな」
独り言のように瑞樹は口を開いた。
「昔、この月守町は岩戸村っていう名前だったの。たぶんアマテラスの岩戸籠もりの神話に基づく信仰が残っていたんだと思う。今ある月読神社も岩戸神社って名前で、岩戸神社にはアマテラスと呼ばれる御子がいたの。
アマテラスの御子は年に一度の岩戸祭りの日だけしか、外に出ることが許されなかった。でもね、御子はなに不自由ない暮らしを約束されていたし、村の人々も御子を大切にしていた。だから御子は幸福の象徴とされてきたのね。
岩戸神社の長女は必然的に御子として生きる定めを負うことになった。そして、御子が適齢に達すると、月読祭りが開かれて、村中の人々が武術を競い合った。要はアマテラスの婿取りだった。それは月読の儀と呼ばれた」
文は最初の内、何気ないように聞いていたが、その内容にハッと顔を上げた。
「そう。この月読の儀は本当ならただの武術大会のはずだった」
「それって」
「でも、悲劇が起きた」
瑞樹は文の言葉を遮るように話を続けた。
「御子が双子として産まれたのがきっかけだった。初めに取り上げられた女児が長女として、アマテラスの御子となった。彼女は当然ながら岩戸神社で大切に育てられた。次女は村人と混じり、年相応の少女に成長した。
あまりに似通った双子は、両親でさえもどちらが長女か判別することはできなかったらしいの。だから時折、長女と次女は互いの立場を入れ替わるようになった。そして適齢期を迎えた長女は、御子として月読の儀を迎えることになった。もう昔のように互いの立場を入れ替える事も出来ないと知った姉は、妹の自由を妬み、憎んだ。町娘のように花を愛で、愛する人と添い遂げる一生を夢見た」
「ねえ、瑞樹それって」
「その想いを敏感に察した若者がいた。蛇のようにずる賢い男だったらしいわ。その男は姉にこう言った。
『お前と妹は本当に瓜二つだ。お前が今妹だと名乗り出ても誰も気がつかないだろう』
その日から姉は自分を妹だと主張し始めた。妹はそのことに戸惑った。その時、妹には想い人がいたから。自分がアマテラスの御子にされてはかなわないと、妹は必死で自身が本当の妹であると主張した。姉妹は争うように自身が妹だと言い張ったが、誰ひとり彼女達のどちらが姉で、どちらが妹なのかわからなかった。
そこで、岩戸神社の神主である父は二人をアマテラスの御子として、月読の儀に出席させた。そして、見事優勝した若者に、アマテラスの御子を決めさせることにした。
月読の儀は、婿選びでもあったのだけど、岩戸神社を守る神主、つまりツクヨミという地位を手に入れられたの。それは村の中では一番の権力者で、だからこそ、誰もがツクヨミになりたがった。
そして、月読の儀は滞りなく行われ、優勝者が次代のツクヨミとなった。それは姉を惑わせた男だった」
「つまり、その男が妹を選んだってこと?」
「それはわからない。実際どちらが選ばれたのかは全くわからないの。でも、アマテラスの御子にされた彼女は、全てに絶望し、一族に復讐することにした。岩戸神社から全ての親族を追い出し、一族を罪人のように扱ったと聞いてるわ。
その後、ツクヨミは自分の一族を村の中心に据えた。男の目的は最初からそこにあった。御子の一族を葬り、自分の一族を中心に置く。ツクヨミの改革は岩戸神社の名前を月読神社に変えさせ、村の名も月守町と変えさせた。そして、月読の儀はその頃から秘祭とされ、人々はアマテラスの存在も忘れていった。実際、その後のアマテラスがどうなったかはわからないし、表舞台に出てくることも無かったからね」
「瑞樹、どうしてそんな事を知ってるの?」
「うちがその追い出されたアマテラスの御子の一族だから」
「ウソ」
「本当よ。だからうちの家系の人は月読神社に入れない決まりがあったりするの。それと、月読の家系は龍波の家なの」
「そんな話、初めて聞いた」
「うちに語り継がれた物語だからね。私も実際にこの殺し合いに参加するまで半信半疑だった。お婆ちゃん達はこの儀式の在り方が間違ってるって、なんとしてでもこの儀式を元の姿にしようとしていたみたい」
「じゃあ、なんでも願いが叶うっていうのは事実だったの?」
「うん。町の中で一番の有権者は月読よ。この殺し合いで生き残れば、私にもその権利が手に入る。いいえ、元の姿に戻すことも可能だと思う」
「じゃあ、瑞樹はその為に? でもあの音無しの鐘は、あらかじめ鳴る人が決まってたんでしょ?」
「そうね。たぶん鐘に細工がしてあった。でも、私の場合はどういうわけか鳴ってしまった。鳴るはずもない鐘が鳴った。そこなのよ、問題は」
「問題?」
「そう。以前にも私と同じように一族で鐘が鳴ったことがあるの。私の曽祖父の妹さんらしいの。彼女は最後まで生き残って月読になったはずなのに、この儀式が終わることはなかった。私達の知らない秘密が有るみたいなの。だから最悪、私は岩戸から御神体だけでも持ち出して、なんとか逃げるつもり」
「御神体。瑞樹の目的はそれなのね?」
「そう。それさえあれば私達一家はこの町から離れる事ができる」
「そっか。それがあれば瑞樹はもう後ろ指さされなくて済むようになるんだね」
「まあね。たぶん、岩戸はこの旧校舎の地下にあると思うの。一緒に来てくれる?」
「もちろん」
瑞樹は文がいつもの彼女に戻った事を確信した。彼女の瞳には強い光が宿っていた。瑞樹が安堵したのも束の間、突然、扉が開かれた。
「おや? そこにいるのは……文さん、だね?」
涼しい表情の蘇芳がそこにいた。彼の手にはナイフが握られている。
「蘇芳君、よかった。一緒に探して」
文の言葉を遮るように蘇芳が飛びかかってきた。その一閃は間一髪、文の目の前を過ぎ去った。
「よかった。まだ死んでなかった。ちょうど切らしてたんだ」
表情はいつものものだったが、その瞳は獰猛な獣の目をしていた。
「切らしていた?」
文は日本刀を抜き払い、蘇芳に向かい合った。
「文、その男は文の血を狙ってる」
「血?」
「そう。どういうわけかわかんないけど、血を飲むのが好きみたい」
瑞樹は文と蘇芳の間に割って入った。今ここで文を失うわけにはいかなかった。
「あぁ、瑞樹さんもいたんだね?」
文以外には用はないと言外に告げていた。
「ええ。蘇芳君、君の性癖に文句を言うつもりはないけれど、文に手を出さないでくれないかしら?」
「それは無理だよ。目の前にご馳走を出されて、食べない人がいるのかい?」
「文、逃げて」
瑞樹の言葉に文は戸惑った。
「文は強いけれど、蘇芳も強い。鳳仙先輩との傷もあるんだから、今は逃げて」
「でも、瑞樹が」
「いいから。ここは私が食い止める。蘇芳は文しか興味無いはずだから。私が殺されることはたぶん無い。だから逃げて。お願い」
「ねえ、君が僕を食い止めれると思ってるの?」
蘇芳が一足飛びに瑞樹に迫る。瑞樹は咄嗟にスタンロッドを目の前に構え、その初撃を受けるが、重い一撃に腕が弾き飛ばされる。
「文、逃げて!」
背中越しに声をかけながら、振り飛ばされた腕を懸命に前に突き出す。電流が流れるスタンロッドを当てることができれば、蘇芳を失神させることぐらいは出来るはずだった。しかし、瑞樹の攻撃は空を切るばかりで、蘇芳に当たらない。ダンスをするように優雅な動作でかわす蘇芳には余裕があるのに対し、瑞樹は必死でスタンロッドを振り回す。
文は瑞樹を見捨てることはできなかった。しかし、蘇芳は初撃以外は一切ナイフを使うことはなかった。瑞樹の言うとおり、蘇芳は瑞樹を殺すことは無いのかもしれない。でも、もし蘇芳が本気になったら、瑞樹は殺される。
しかし、あの蘇芳の動きを見る限り、今の自分がかなう相手ではないのは十分にわかった。逃げるしか道はないのだろうか。考えている間に、瑞樹の体力はなくなっていく。
「お願い! 逃げて!」
信じるしかない。文はそう感じた。
「瑞樹、ごめん!」
文は教室から走り去った。悔しくても泣くまいと歯を食いしばって、ただひたすら前だけを見て走り続けた。




