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徒花  作者: 似櫂 羽鳥
第二章
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20/27

幕間 弔い

 一歩もその場を動けなかった。目の前の凄惨な光景は文に地獄の二文字を思い浮かばせた。龍波と一人の少女が彼女の目に映っていた。しかし、片方は鬼で片方は死者だった。

 瑞樹に言われた地下室を探し当てた文は、その扉が開いていることに気がつき、そしてその中から一人分の声が聞こえ、足を止めた。男の声。それは龍波のものであることは文にはわかっていたが、様子がおかしかった。まるで誰かと話をしているかのように、言葉を重ねている。もちろん相手が死んでいることは、遠目に見てもわかった。

 それが、彼女の無二の親友の瑞樹であることも。

 死体相手に何かを話し、次第に激高した龍波は瑞樹の頭を壁に打ち付け始めた。その姿は悪鬼そのものだった。呟くように、呻くように、呪いのように言葉を発して、龍波はひたすら瑞樹の頭を壁に打ち付けた。瑞樹の綺麗だった顔が既に人の形を留めなくなっても尚、その行為は止まらず、ようやく止まったとき、彼はにじり寄るように文の目の前にやってきた。

 ただ単純に恐ろしかった。人を殺した自分はあれと同じであったのだろうか? そう自問する自責の声が頭を埋める。悪鬼の形相で兄を守るために剣を手にとった自分と、ただ純粋な狂気のみで人を殺す鬼。何が違うというのだろう。

「ああ、文さん」

 返り血に染まった龍波が、幼子のような笑みを浮かべる。まるで救いを求めるかのように差し出された、泣きそうな笑顔。鳳仙を殺した時に綾に差し出した自分の表情は同じではなかっただろうか? あの時の自分はただ抱きしめて欲しかった。しかし、あの時の綾は文を受け入れず、ましてその手は未だ血に染まらず、人を殺める事で自身を取り返しのつかない場所に追いやってもいなかった。同じ場所にいない綾を、ただそれだけの理由で憎んだ。いや、単純に羨ましかったのだと今になって気がつく。そして、綾からすれば、簡単に鳳仙を殺めた文自身に恐怖したのだろうとわかる。殺さなければ殺される極限の状態であっても、綾は人であることを望み、文は生きることを望んだ。その結果が彼女自身を悪鬼に変えた。

 ただの人殺しに変えてしまった。

 抱きしめてもらえるはずなんてなかった。

「同じだ」

 自分も龍波も。

「文さん。俺は、この場所から出て、文さんと結婚するんだ」

 龍波の声は文には届かなかった。聞こえてはいたのだが、それを言葉として聞くことを彼女自身が拒んだ。これはただの鬼だ。ただひたすらに誰かを殺し続ける鬼ごっこに、文達は参加し、綾は参加しなかった。当然と思える状況下でみんなと同じことをした。ただそれだけのこと。その中でたった一人だけ自らの意思で、否と強く立ち向かったのは綾だった。

「やっぱり、綾にはかなわないや」

 龍波にも文の声は届かない。目の前の救いの女神が、手を差し伸べてくれるのを待つだけだった。右手を差し出し、彼女から差し出される蜘蛛の糸にすがろうとしていた。

「ねえ、龍波君」

 文は初めて正面から龍波の顔を見た。均整の取れた綺麗な顔立ち。少しの幼さが残る少年と青年の間にいる面差しは、確かに兄である綾と同等に思えた。でも、その瞳の奥にある強さを彼から感じることが出来なかった。

「文さん、俺、文さんのこと、好きなんです」

 龍波が本心を語っていることは、文にはわかった。いつもどこか遠くから世界を見下ろした感じはどこにもなく、自分の事を"俺"と呼ぶ様もとても自然だった。無理に取り繕った"僕"などという殻から抜け出した、一人の青年が目の前にいた。

「うん。ありがとう。でもね、私」

 文は静かに呼吸を整え、目を伏せた。ようやく彼という存在を受け入れることが出来た。愚かで小さくて、幼い青年。それが龍波という青年だった。自分の力を、権力を無理に誇示していたのは、きっと自分より大きな物を知っていたから。そこに尊敬と憧れを持つか、ただ否定するか、その違いが自分と彼との違いだった。彼が何に怯え、何を否定していのかは文にはわからない。

「文さん。一緒に逃げましょう」

 しかし、これだけはハッキリしている。今、自分は目の前の青年を殺したいのだと。

 文は返事の代わりに腰に挿した日本刀を抜き払った。幾人もの血をすすった汚れた刀。ただ純粋に生きることを選択し、守ることを選択し、殺すことを選んだそれを逆手に持ち、眼前に振り上げる。

「私ね、瑞樹とは親友だったの。小学校からずっと一緒で、これからもずっと一緒だって思ってた」

 文の独白に、龍波の表情が曇った。

「こんな殺し合いはさっさと終わらせて、綾と一緒にここから出て、またいつもと同じ生活に戻れるって信じてた。瑞樹が隣にいて、私の愚痴とか聞いてくれて、ちっぽけな私の願いを一緒に聞いてくれて、叶わない夢を共有してくれるんだって思ってた」

 いつだって傍には瑞樹がいてくれた。その事が文をどれだけ勇気づけていたかを龍波は知る由もなかった。瑞樹にしてみても、それは同じだったのかもしれない。

「ああ、もっと一緒に笑っていたかったな。もっと、もっと、一緒に話していたかったな」

 自然とこぼれ落ちる涙が龍波の上に降り注ぐ。

「文さん」

 頭上にある刃は、間違いようもなく自分に向けられた物だと龍波は悟った。頭の中には「何故」と疑問符ばかりが浮かぶ。自分が殺したのは父親で、父親から逃れた自分は、当然のように文と結ばれるはずで、こんな血生臭い場所から抜け出して、それで?

「どうしてかな? どうして、瑞樹があんな風に殺されなきゃいけないのかな!?」

「俺は、俺は、瑞樹なんか知ら……な」

 龍波の手に残る長い髪の毛が、彼の脳裏に克明に瑞樹の死体の像を映し出す。何度も叩きつけたそれは、父親ではなく、紛れもなく瑞樹そのものだった。生暖かさを残した女の肉の感触が手に残り、血の臭いが鼻の奥に残っている。

「死ね」

 怨嗟の声はその一撃に込めて、龍波の頭上に振り下ろされた。真下に向けられた刀身が空を切り裂いて、直線で襲いかかる。

 龍波は反射的にその刀から逃れた。ギンと石の床を突く刃の音に、死の一撃から逃れたことを知った。

「ち、違うんだ。あいつが、あいつが悪いんだ。俺は悪くない。だいたい殺さなければいけなかったんだ。あいつは、俺を」

 もう、文の耳に龍波の声は届いていなかった。ざわりざわりと五月蝿くまとわりつく蝿のように、眠りを妨げる音のように、町の猥雑な雑踏のようにしか聞こえない。

『殺せ。殺せ。コロセ』

 体の奥から響く唄のような声は、祈りのようでいて、叫びのようであった。もう既に引き返せない場所まで来た自分には、それらの声に抗う術はなかった。思いのままに、逃げ惑う卑小な生き物を殺す事。そのことしか頭になかった。

「あいつは、お前の事が好きだとか言ってたんだ」

 振り上げた刀が不意に止まった。

「瑞樹が?」

「そうだ。あいつは」

「あいつ?」

 文の腕に力がこもった。

「瑞樹だ。瑞樹が君のことを好きだって。恋愛感情でだ。そんな奴は死んだほうがいいだろう? 君だって気持ち悪いって、気味が悪いって思うだろう。友情だって思ってたのは君だけだったんだ。あいつは、いや、瑞樹は卑しい気持ちで、君のことを見つめてたんだ。殺さないといけなかったんだ。そうしないといつかあいつは君を」

 文は息を飲んだ。瑞樹が自分を愛していた。そんな感情が彼女の中に有ったことを、文は全く気が付かなかった。たぶん彼女自身がそれをけっして漏らさぬように、強い意思で封じ込めていたのだろう。まるで自分が兄である綾を愛しているように。

「気持ち悪いだろう? なあ。俺は悪くないだろう。仕方ないだろう?」

 気持ち悪いわけがなかった。同じ痛みを抱えていた。自分ひとりだけの苦しみではなかった。瑞樹もまた自分と同じように痛みを抱えて、それなのに彼女に寄りかかるようにしていた自分。そして、その親友を無残な姿にされて、我を失って、悪鬼と化して、この手を、この身を更に堕とそうとしていた自分。

「ああ、やっぱり私は弱い」

 不意に文の腕から力が抜けた。瑞樹が以前教えてくれた言葉が鮮明に聞こえた。

『文、闘志で剣を振るのは構わないけど、憎しみとかそういうもので振るっちゃダメだよ』

 あの時、兄に勝てない自分が許せなくて、なにより強すぎる兄が疎ましくて、がむしゃらに剣を振るっていた。

『剣って、人を殺してしまうものでしょ? だったら憎しみに心を委ねたら、もう人では無くなってしまうよ』

 そうだ。今の自分は人ではなかった。寸前で殺すための剣から、生きるための剣に戻れた。龍波を殺さなくてよかった。

 刀を下ろした瞬間を龍波は見逃さなかった。相手から戦意が無くなった今しかチャンスはなかった。彼は右手に隠し持った小さな針を、文の左脚に打ち込んだ。

 突然の事に文は何が起こったかがわからなかった。今感じた痛みは恐らく針だろうと言うことはわかったが、そんな小さな傷を作った所で、なんになるというのだろう。文の意外そうな表情に、龍波はにやりと笑みを返した。

「文さん。"僕"はね、欲しいものは何でも手に入れてきたんだ。そう。僕が悪いわけがないじゃないか。まったく、肝心の狐が死んで、瑞樹さんから余計なことを聞いたせいで、取り乱してしまいました」

 まるで憑き物が落ちたかのように、いつも通りの龍波が文の目の前にいた。

「何を、したの?」

 龍波は文から離れ地べたに座り直した。まるでそこが玉座だと言わんばかりに、大手を広げて悠々と文を見上げている。

「今刺したのは毒針です。もちろん即効性はありませんからご安心を」

 それを聞いて文が安心できるはずもなかった。

「まったく、ほとほと困った人たちだ。文さんも瑞樹さんも。確かにこの場所には霊的な何かがいるのかもしれませんね。まあ闇っていうのは、人間の本質を引きずり出すってのは、あながち間違いじゃないのかもしれませんが」

「呆れた。あんたって最低だよ」

「それで結構。どの道、文さんは一つしか選択肢が無くなったわけです。僕と一緒にここを出て、解毒剤をもらい、僕の花嫁になる。大丈夫です。僕は文さんの事を愛しています」

 愛している。その言葉がこれほど軽く聞こえたのは初めてだった。毒針で命を脅かして、力で縛り付ける。それが愛だというのだろうか? 人を自分の思う通りに動かすことしか出来ない人間が、人のことをどれだけ愛せるというのだろうか? 文は苦笑いを零すしかなかった。

「さて、昔話をしましょうか。僕はね、かつての当主の、いや月読の生まれ変わりなんだ。かつての月読は、欲しいものはなんでも手に入れた。地位も、名誉も。そして邪魔なものは全て排除した。敵も、家族も、そして天照も」

「何を言ってるの?」

「そう。ここに来て思い出したよ。君はそうだ。双子のかわたれのどっちかだったね。まあどっちでもいいけど、君は僕の婚約者だった。いや、妻となった。僕が君を愛するのは当然だ。だって、僕は昔から、生まれる前から君のことが好きだったんだから。そうだな。そうだよ。君を娶ったら、まずは君を犯そう。きっといい声で泣き叫ぶだろう。飽きたらその舌を抜こう。反抗的な目をしたら目をえぐろう。ああ、耳は残してあげるよ。君にはもっともっと苦しい表情をしていて欲しい。そうだ。いい顔だ。その顔だよ。僕はね。そういう表情が好きなんだ。君のそういう潔癖な所が大好きなんだ」

 返す言葉など無かった。ただ一つだけ、諦めが文の中に残った。

『ねえ、瑞樹。私さ、鬼でいいや』

 親友の骸に文は哀しみの混じった笑顔を送った。そして、下ろした日本刀を強く握り直した。

 自己防衛の本能でなく、誰かを守るという言い訳でなく、殺人という衝動でなく、自らの意思で、彼女は日本刀を構えた。

「何をしているんですか?」

「龍波、貴方を殺すわ」

「はは、なにを馬鹿なこと言ってるんですか? 僕が死んだら、毒が回って死ぬだけですよ?」

 確かに龍波にすがれば生き残ることは出来る。そう、生き残ることしかできない。そして龍波の手の中で生きたまま、殺される。同じ死ぬのならば、死に場所ぐらいは自分で選ぶ。

「龍波。私、人を殺したの」

「そんなこと、気に止む必要はありません。ここでの事は、全て無かったことになりますよ」

「いいえ、無くならないわ。貴方も、私も、もう人には戻れない。私は」

 ひと呼吸、息を吸い込む。目を閉じる。様々な光景が走馬灯のように走る。楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、苦しかったこと、人を殺したこと。

『さよなら。今までの私』

 文は目を見開き、目の前の愚者の王を真芯に捉えた。王は何も知らず、何も理解せず、愚鈍なまま死んでいく。それでいい。あれは人だ。人の醜さの塊だ。

「私は、鬼だから」

 真剣すぎる文の言葉に、龍波は笑いを堪えきれず息を吐ききった。しかし、嗤い声が口から漏れることはなかった。

「な、んで?」

 胸の中央から奇妙なオブジェが伸びていた。そのオブジェは文の手に続いていて、今まで無いほどの彼女との接近だった。息がかかるほど近くにいるはずなのに、龍波にとって文はあまりに遠く感じた。

 文はその問いに答えることもなく、龍波の胴に右足を乗せ、足と手の力で深々と刺さった刀を引き抜いた。そして、二度と龍波を見ることはなかった。


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