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徒花  作者: 似櫂 羽鳥
第二章
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一、それぞれの正義

 後味の悪さを振り切るように、廊下を走りぬけた。文が駆けて行った方、そちらとは正反対へ向かって。間もなく見えてきたのは、新校舎への扉だった。最後に一度だけ、振り返る。もう鳳仙の死体も見えず、暗闇が静かに広がっているだけだった。文が引き返してくることを少しだけ期待したが、彼女が戻ってくる気配はなかった。

 吐息を漏らして、新校舎に、足を踏み入れる。

 リノリウムの床に、モルタルの壁。幾分か見慣れた学校の景色が目に飛び込んできた。つい最近まで普通に使われていたような新しさはあるが、埃っぽい空気は旧校舎と同じだ。だが旧校舎に比べて老朽化は少なく、うっかり床板を踏み抜いてしまう危険がないだけでもありがたかった。

 渡り廊下から入った目の前には階段。旧校舎と同じ構造だ。左に通路が延び、幾つもの扉が立ち並ぶ。とりあえず一息つきたかった。警戒しつつも、一番近くの教室に忍び込んだ。保健室だろう…カーテン仕切りのベッドで見当はついた。幸い、人はいない。倒れこむように、ベッドへ横たわる。

 どっと疲れが襲ってきた。儀式が始まって、どのくらいが経つのだろうか。常に止まない緊張感のせいで、時間の感覚が曖昧だ。背中のシーツからは黴臭いような香り。だが今の俺にはそれさえも心地よく、体重で沈み込むマットレスと共に意識は下へ、下へ、深く沈み―――




『お兄ちゃんは、月読様になれたら、どうする?』

 竹刀を小脇に抱え、文が問うた。

『そうだな…うーん、世界平和、とか?』

『もう。真面目に答えて』

 道着の裾からそよそよと入る風が、稽古で火照った体を冷ましてくれる。

『ごめんごめん。でもなぁ…考えたことないや、思いつかない』

 縁側で俺の隣に座る文は、頭に巻いた手ぬぐいを取り額を拭った。束ねた黒髪が真っ白な首筋に汗で貼りつき、濃い墨で引いたような曲線を描く。

『文は? 月読様になったら何をお願いするんだ?』

 俺の問いに小さく首をかしげ、困ったように微笑み。

『私は…』

 黒曜石の瞳が俺を見つめる。

『私は、月読様になれるのなら』




 背筋を寒気が伝い、目を覚ました。薄暗い天井。眠ってしまっていたのか。

 起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。全身が気だるく、重石が乗ったかのように動こうとしてくれない。頭の覚醒は早かった。儀式の途中で、のんきに惰眠をむさぼるなんて…無防備もいいところだ。生きて目覚められただけ運がいい。

 ごろりと寝返りを打ち、両腕を支えにして無理やり起き上がる。未だ時間ははっきりせず、窓の目張りからかすかに差し込む光の色合いだけでおおよその時をよむ。夕刻ではないようだ、光はまだほの白い。壁に時計はかかっているが、秒針はとうに刻むのをやめていた。あてにはならないだろう。這い出るようにベッドから降りると、少しだけ足元がぐらついた。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。何としてでも、ここから出なくては。

 軽く体を動かして、保健室を後にする。外は思いの他静かだった。

 改めて廊下を見渡した。真っ直ぐ伸びる左手側に連なる板付きの窓、右手側には規則的に並んだスライド扉。掛けられたプラスチックのプレートはまだ綺麗だ。俺がいた一番端の保健室、その隣は職員室とある。開けっ放しの入り口から中を覗くが、誰もいない。少なくとも、気配はない。乱雑に散らかされたままの室内。教卓からは教科書やプリント類が床に雪崩れ落ち、まるで直前まで普通に使っていて、慌てて出て行ったような印象を受けた。入り口に近い机から落ちたと思われる一冊を手に取る。俺達の使っていた数学の教科書と似ているが、見たことのない装丁だった。

 この廃校の事がわかるような資料があるかもしれない、と教室を漁った。手当たり次第に書類を開き、目を走らせていく。ほとんどが教科書、授業のプリントと、関係のなさそうなものばかりだ。鍵のかかっていない引き出しを開けると、整理されたファイルの中に名簿のような一冊を見つけた。取り出し、開いてみる。

「…なんだ、これ」

 黒い表紙の中には、何もなかった。いや、正確には切り取られていた。紐で留められた紙の破片だけが残り、その先は全て引きちぎられていた。引き出しの中にはまだ同じようなファイルがある。そちらも見るが、同じだった。

「どうなってんだ…」

 呟きは虚空に消える。最後の一冊を開いた所で、何かが足元に落ちた。拾い上げたそれに目を落として、俺は息を呑んだ。

【もう逃げられない、一人になるまで儀式は終わらない。誰かが月読になるまで終わらない。誰も信用できない、みんながわたしを狙って、ころしにくる。嫌だ、嫌だ、死にたくない、怖いよ、帰りたいよ、たすけてください、しにたくない、しにたくないしにたくないしにたくないだれかたすけて】

 落書きのような文字はぷつりと途切れていた。掠れたような赤いインク…と思ったが、よく見れば違う。乾いて変色し、赤茶けた…多分、血。とっさに投げ捨てていた。呪詛のような文面が脳内をぐるぐると回り、めまいが止まらない。床に落ちた紙面から、ゆらりと陽炎のように思念が立ち昇っているように見えた。赤い赤い、恨みと無念が。

 後ずさった俺の背に、スチールの書庫がぶつかった。詰め込まれていた本やら紙やらが次々に降りかかってきた。慌てて止める間もなく、足元に山が築かれる。最後に後頭部へ分厚い辞書のようなものが落ち、山の頂点に落下した。それだけ妙に真新しい。手に取ろうと屈んで、次いで聞こえた音に静止した。

 足音だ。きゅ、きゅ、と床板を踏み鳴らす、靴の音。近い、壁を挟んでごく近くから聞こえる。息を詰め、身を隠せる隙間を探す。目前の教卓、本来なら椅子が収まる足元に人一人くらい入れそうなスペースがあった。膝をつき、全身を研ぎ澄まして潜り込む。刀の紐を解いて、手の中へ。

 足音が止まった。だがすぐに歩き出した。きっとさっきの騒音は聞こえていただろう。案の定、どんどん近づいてくる。それまでは足音に廊下独特の反響が混ざっていたが、それがなくなった。同じ室内に、誰かがいる。向こうも警戒しているようで、歩調はかなりゆっくりだ。知っている顔か、あるいは。ごくりと唾を飲み込んで、潜んだ机の間からそっと様子を伺った。腰から下の範囲しか見えないが、男子生徒だ。黒いスラックスが見えた。スポーツシューズ。千切れたシャツの裾。ちらりと垣間見えた両手の指に鈍く光る…

「敦盛…?」

 俺の独白に呼応するように、人影が揺らいだ。

「綾…綾なのか?」

 懐かしい声に涙が出そうになる。胸を撫で下ろして、狭い机の下から身を乗り出した。机を挟んで俺を見下ろす敦盛は、先程旧校舎で別れた時と同じ笑みを浮かべていた。

「よかった! 無事だったんだな!」

散らばるがらくたを蹴散らし、敦盛はこちらへ駆け寄った。差し出された掌を強く握り返し、互いの無事を確かめ合う。

「委員長は大丈夫だ、お前が行ってからしばらく見張ってたけど、あの階には誰も来なかったから。それより綾、文ちゃんには会えたのか?」

痛い所を突かれ、何も返せずに黙り込む。俺の沈黙を違う意味に解釈したのか、敦盛は蒼白した。

「まさか…文ちゃんはもう」

「違う…違う。生きてるよ。無事だった。けど…」

赤に染められた文の姿。鳳仙を切り裂いた刃のきらめきが記憶に甦る。『これは殺し合いなの』『勝手に逃げ道を探してればいいのよ!』文の恫喝が耳から離れない。なぜ文は戦うことを選んだのだろうか。他に道はなかったのか。俺が…間違っているのだろうか。

 何が、正しいのだろうか。

「俺には…わからないよ…」

「…何か、あったんだな。文ちゃんと」

「なぁ敦盛…どうしてこんなことしなきゃならないんだ…なんで戦わなきゃ…殺しあわなきゃならないんだよ!」

 無機質なスチールの机に、握った拳を叩きつける。

「こんなのが月読の儀式だなんて、絶対おかしいよ! 友達を殺して、月読になるなんて俺は望んじゃいない! そんなことのために人を殺していいなんて、間違ってるよ!」

 言葉が止まらなかった。思いのままにぶちまけた。すれ違う文の冷たい眼差しをかき消すように。

「戦わなきゃ殺される、そんなのわかってる! でも…でも! 俺は誰も殺したくない! 帰りたいだけなんだ、月読なんてどうでもいい! 俺はただ!」

「落ち着け、綾! 声が大きい!」

 何度も叩き下ろした握り拳を敦盛の手が止める。俺を見つめる敦盛の眼で我に返る。

「わかった、お前の気持ちはよくわかったよ。なんとなく、事情も察した。とりあえず今は落ち着いて、ここから離れようぜ。今の声で、誰かに居場所がばれたらまずい」

 俺の返事を待たず、敦盛は開きっぱなしの扉からそっと外の様子を伺った。

「いけるな。綾、早く」

 荒げた息もそのままに、飛び出した。先を走る敦盛の後を追って、闇の中へ。

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