五、 交差する心
渡り廊下も校舎内と同じく目張りがされていた。高いトタンの屋根から地面へと暗幕のような何かが垂れ下がり、足元のコンクリートに打ち付けられている。試しに刀で幕を切りつけてみたが、破れそうもなかった。それでも校舎にいる時よりは多少良かった。屋根と暗幕のつなぎ目から微量だが風が流れ込んでいて、俺は新鮮な外の空気を目一杯に吸い込んだ。
切れかけた裸電球が点々と続く。想像していたよりも長そうだ。空洞のような廊下を突き進む。この先にきっと、文が待っているから。
半ばを過ぎた辺りで、立ち止まらざるを得なくなった。いきなり前方から、大音量の歌声が聞こえてきたからだ。野太い声で高らかに歌われているのは…俺も通う月守高校の校歌だ。式典や年中行事でしか聞いたことのないそれの歌詞を俺は覚えていないが、歌声の主は澱みなく声を張り上げて三番までフルコーラスを完奏した。物好きがいるもんだと口元が綻ぶ。続けて足を出そうとした、瞬間だった。
「止まれぇぇぇぇぃ!!」
一番の歌詞へリピートしていた声が急にトーンを変え、怒号を飛ばした。大地を震わすような響きが俺の芯を揺さぶり、立ちすくんだ。
続け様に吐かれた文句に、俺はぽかんと大口を開けてしまった。
「俺の名は月守高校三年四組、天ヶ井鳳仙! 次の獲物は貴様かっ!」
おおよそ時代錯誤な紋切り口調と、何かを地面に打ち付ける音。「天ヶ井鳳仙」…噂は耳にしたことがある。暴走族と三十対一の喧嘩をして、バイクごと海に投げ飛ばしたとか、危ない組の事務所に乗り込んでいって壊滅させたとか、はたまた捨てられた子犬を拾っては育て、自宅は犬屋敷だとか。嘘か本当か解らない良評と悪評が数々語り継がれ、とにかくとんでもない人物だということで纏められていたような気がする。そんな奴が目の前にいると知って、冷や汗が止まらなくなった。
「どうした! 怖気づいたか、他愛もない奴め! ここを通りたくば、俺を倒してからゆけ!」
完全に気圧されてしまった。しかし引くわけには行かない、この先に文がいるのだから。
警戒したまま静かに歩み寄る。ちかちかと不安定に点滅する電球に照らされた鳳仙の体躯は、あながち噂も真ではないかと思える程に巨大だった。頭一つ分くらい俺よりも高く、がっちりとした上半身に学ランを引っ掛け、右手にはこれまた大きく鋭利な槍。歳は一つしか変わらないはずなのに、威圧感が半端じゃない。
柄にかけた指は離さず、俺は鳳仙へ問いかけた…不毛な気はしていたが。
「あの…通してもらえませんか? 人を探してるんです。多分新校舎にいるみたいで…急いでるので、お願いします」
鳳仙は値踏みするように俺を見回し、鼻で笑った。
「ふん。それは出来ぬ相談だ。生憎だが、ここを守るように言われているのでな。どうしてもと言うなら、俺と戦え」
やはりだ。色々引っかかるところはあるが、意地でもただでは通さないつもりらしい。溜息を吐き、策を練る。出来れば戦いはしたくない。ましてや相手は見た目もいかついい大男だ。明らかに分が悪い。
思案していると、鳳仙が急に口調を変えた。
「…お前、名はなんという」
「え…高天、綾です、けど…」
「高天? …そうか…」
男の顔に不穏な笑みが浮かぶ。訳が分からずぽかんとしていると、鳳仙は豪快に笑った。
「ははは! これは楽しくなってきた! 高天綾、いざ尋常に、勝負っ!」
一方的に喋り、次の瞬間には目前に迫っていた。早い。そう思った刹那、視界が屋根を捉えていた。みぞおちが痛む。息が詰まる。げほっ、と大きく咳が出て、弾かれたように空気を吸った。
無理矢理に上体を起こすと、尖った煌きが鼻先に突きつけられた。
「…高天の子とは名ばかりか、軟弱者が。慈悲をやろう。二度はないぞ」
鋒が離れ、槍を腰だめに据え、鳳仙は言い放った。
「剣を抜け! かかってこい、高天綾!」
石突で打たれた胸の痛みもとれないまま、仕方なく俺は立ち上がる。柄を握るが、手が震えてしまう。
「はぁっ!」
秒もなく向かってきた矛先を、鞘のままで上へいなす。
抜けない。
「とうっ!」
流れるような斬撃。寸手のところで弾き、後ろへ身を引く。
誰も傷つけたくない。
「せやぁっ!」
踏み込みからの突き、しゃがんで弾き飛ばす。
誰も殺したくない。
見た目とは裏腹の素早い連撃を、ぎりぎりで躱し続ける。鳳仙の表情に滲むのは怒りだろうか、鞘と穂先がぶつかり合って鈍い音を立てるたび、彼の眉は釣り上がっていった。
殺したくない。死にたくない。どうすればいい…!
防戦一方の俺の息が上がり始める。対して鳳仙は疲れなど感じていないようだ。一撃の重さはまだ衰えない。横薙ぎを受け止めた時、刀の両端を持つ腕がじん、と痺れた。力が入らなくなって、手のそれを取り落としそうになる。俺の顔が苦痛に歪んだのを、鳳仙は見逃さなかった。勝ちを確信した男の顔が薄く笑みを宿す。
俺の視線は鳳仙の肩の先に吸い込まれた。
綾と視線がぶつかった。一瞬の交錯が文と綾の間にあった。文が迷うことは無かった。一瞬のうちに目の前の鳳仙との距離を縮め、抜き払った日本刀でその背中を切りつけた。
綾の表情に驚愕の感情が浮かぶ。その表情を見た瞬間、文はそれを苦々しく感じた。きっと兄は未だに一人も殺してはいない。それを綾らしいと感じる反面、自分とは別の生き物のように感じ、綾との深い距離を感じていた。
「貴様! 神聖なる決闘に横槍を入れるか!」
振り払われた鳳仙の短槍は弧を描き、文に襲い掛かった。文は咄嗟に日本刀ですくい上げるように弾いた。
一撃が重い。元々大柄な鳳仙の一撃はあまりに重く、まともに打ち合えば、力負けするのが目に見えた。一旦後ろに飛び退いた文は日本刀を真っ直ぐに持ち直し、鳳仙の出方を待った。
「いい覚悟だ。それこそが戦士の目。俺に不意打ちを食らわせたぐらいで勝てると思うな」
鳳仙は短槍を低く構えるとそのまま一直線に文との距離を詰めた。鳳仙は一息に三度の突きを放ち、文は一撃、二擊とかわす。三擊目に放たれた槍は日本刀で上に弾いた。がらんと空いた鳳仙の胸元に、短槍を弾き上げた勢いを返した日本刀で斬りつける。
短槍のリーチは長いが、刃先にしか凶器は無い。だから一度弾きあげてしまえば、次の一撃までの時間のあいだに斬りつけることができたはずだった。しかし、文は不意に感じた殺気に返した刃を胸元に引き寄せ、後ろへと飛び退いた。その瞬間に迫ってきたのは、短槍の柄、石突だった。日本刀と石突が鈍い音を立て、文はその勢いを胸に受け後方へ弾き飛ばされた。
まるで棒術を扱うように一気に振り下ろされた一撃は、後ろに飛び去らなければ肋骨を砕いていたに違いなかった。
「ほう、なかなか歯ごたえがあるじゃないか。大胆に見えて堅実。戦士の凶暴性と冷静さを保ち、それでいて臆病。うむ、殺してしまうには惜しい。お前、名をなんという」
「高天文。天ヶ井先輩…ですよね」
文が言葉を発すると、鳳仙はニヤリと笑みを浮かべ視線だけで頷いた。
「ほう、これはいい。お前の兄は腑抜けだが、お前はなかなか見込みがある。つまり、倒しがいがある」
腑抜け、その言葉に文の表情が曇る。
「先輩、お喋りなんですね」
「死にゆくものへの手向けだ。次で決める」
鳳仙は同じように低い構えのまま、文に飛び込んでくる。文も同じように鳳仙に向かって飛びかかった。
「うおおおお!」
鳳仙の気迫と共に突き出される槍を弾き、文も日本刀を振り下ろす。一撃、二擊と繰り出される斬撃は、両者ともに気を抜いた瞬間、致命傷となりうるものだった。先に集中力を切らした者が、死ぬ。
文の中には、先程まで感じていた殺しに関する罪悪感、恐怖、苦しみはなかった。ただ目の前の相手を殺す。それは生存をかけた選択であり、当然の結果だった。自分が今死ぬわけにはいかない。そして、兄を殺させるわけにも、兄が殺しに関わることもさせない。
『私が、綾を守る』
槍を弾き上げた一瞬、鳳仙の動きが止まった。切りつけられた背中の痛みが彼の反応を一歩だけ遅くさせた。その隙を文は的確に見抜き、右肩から左脇腹目掛けて日本刀を振り下ろした。飛び散る血しぶきが文の制服を赤く染める。崩れ落ちる鳳仙に、文は最後の一撃を加えた。彼女の手には生々しい肉の感触が残った。
これは、現実なんだろうか。
鮮血を吐き出し続ける男の骸。滴る赤は彼女の刀を、足元を、制服を染め上げる。何事もなく彼女は刀を振って血を払い、鞘に収めた。
文が、鳳仙を殺した。止められるはずがなかった。文が来なければ、俺は殺されていただろう。それでも、彼女が人を殺したという事実をまだ受け入れられなかった。
「お兄ちゃん、無事?」
顔についた返り血を気にも留めず、文は俺の手を取った。腰を抜かしてへたりこんでいたのを今更知る。
「あ、ああ」
「よかった」
微笑む文はいつもの彼女だった。けれど、その顔を素直に見れない。
「どうして…とどめを刺したんだ? …先輩はもう」
「お兄ちゃん。先輩をあそこで殺さなければ、きっと私は胸を貫かれてたわ」
「そんなのわからないだろ!」
事も無げに言い放つ文が別人のように感じる。目をそらし、拳を握り締める俺に小さく溜息を投げ、文はちらりと鳳仙を見た。
「わかるわ。お兄ちゃん。これは殺し合いなの。先輩は殺すしかなかった」
文の瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「そういうことじゃ…」
上手く言葉にできない。殺さなくても良かっただろ?本当はそう言いたかった。けれど、今の文にそれを言っても無駄だと、どこかで思ってしまった。
「…ショックなのはわかるわ。でも、これは月読の儀式なのよ? 皆月読様になるために、躍起になってる。戦わなければ殺される。私はそんなの嫌。だから動くしかないのよ」
何も返せない。文の言っていることは間違いではない、身を守るためには必要なことだと理解している。理解は、している。ただ認めたくないだけなのだ。
「…お兄ちゃん」
黙り込んだ俺を見かねて、文の手が俺の肩に乗せられた。思わずそれを振り払った。
「文、俺は…俺は、他にも道があると思う。確かにやらなければやられる、でも、それを正しいとは…思いたくない」
ほんの一瞬、文の顔が曇った。その僅かな揺らぎに、俺は気づく余裕がなかった。
「…それで、お兄ちゃんはどうするの?」
「俺は新校舎で生き残りを探す。旧校舎にも仲間がいるから。生きてる奴らをできる限り説得して、ここから逃げる方法を考えるよ」
「…そう」
一緒に逃げよう。言おうとしたが、文は俺の前を横切って行こうとした。
「ま、待てよ! 文も…」
「お兄ちゃん、覚えておいて。生き残り全員が味方とは限らない。向かってくる人がいたら、その時は…躊躇わないでね」
耳を疑った。文は俺に、敵は殺せと言っている。俺の中で何かが弾けた。
「…なんで…どうして文は、簡単に人を殺せるんだ!」
振り向いた文の目は、鳳仙を殺めた刃のように冷たかった。
「……生き残るためよ」
「その為に何人殺す気だ? そんな事して、何の意味があるんだよ?!」
「うるさい!」
文が大きく叫んだ。長い髪を振り、俺を睨みつける。
「お兄ちゃんこそ、なんで逃げようなんてことばっかり考えるの!? さっきだって私が来なければやられていたじゃない! 彼は必ずお兄ちゃんを殺ってたわ。周りに死体が転がってるでしょ! お兄ちゃんもその内の一つになってたのよ!」
「だからって!」
「もういい! お兄ちゃんは勝手に逃げ道を探してればいいのよ!」
文はそう言い残すと、足早に旧校舎側へ渡り廊下を歩いていった。呼び止める間もなく、その姿は暗闇に吸い込まれていってしまう。折り重なる死体の前で、俺は呆然と立ち尽くすしかできなかった。
自らを守るために、人を殺める。誰かを救うために、その手を血で染める。
その恐怖と葛藤を、俺はまだ知らなかった。ただ死の足音に怯え、目を背けていただけだった。命を摘み取ることで、見えない後悔の枷に一生囚われ続けることもわからないまま。
俺より先に、己の意思でそれを背負った文を、生半可な理想で否定したことすら、俺は気づいていなかった。




