第3話 獣医の涙
次で完結です
言葉は震えているが、その視線には怒りにも似た色が宿っていた。
自分でもどうしようもない感情の行き場を、必死に探しているように見えた。
私は、一瞬、言葉を失った。
安楽死という選択肢は、獣医として、何度も考え、何度も実行してきた。
けれど、今、タマが必死で前脚を伸ばしているのは、いったい何のためなのか。
喉の奥に、熱いものがこみ上げてくる。
感情のままに答えそうになるのをこらえ、私は大きく息を吸い込んだ。
一度、深く、呼吸を整える。
そして、できるだけ静かな声で言った。
「今、この猫は、あなたのために頑張って生きようとしています」
娘さんの目が、かすかに揺れた。
「本当は、もう、何かを口にできるような状態じゃない。
それなのに、今も、あなたの声にだけ反応して、卵を舐めた。
さっきから、何度も、あなたの方に前足を差し出している。見えていましたね」
娘さんは、唇を噛みしめる。私を睨み付けたまま。
「それが、どういう意味か、分かりますか」
自分でも驚くほど、声が低くなっていた。
胸の奥で、怒りと悲しみがないまぜになって渦巻いている。
娘さんは、何も言わない。
その沈黙に、私は言葉を重ねた。
「この子は、最後の力を振り絞って、あなたを慰めようとしているんです。
あなたが泣いているから、『泣かないで』と言う代わりに、手を差し出している。
『お手』をしたら、あなたが笑うって、覚えているから」
そこまで言ったところで、娘さんの肩がびくりと震えた。
喉の奥から、うーっと押し殺したような声が漏れる。
私は、もう一度、深呼吸をした。
感情に任せて責め立てるわけにはいかない。
それでも、どうしても伝えなければならない言葉があった。
「それなのに」
自分の声が、かすかに震えているのが分かった。
「それなのに、飼い主のあなたが、『楽にしてあげて』と言ってしまったら、どうなると思いますか。
最後まで奇跡を信じて、見届けてあげるのが、飼い主の務めじゃないんですか」
娘さんは、もう我慢できないというように、うーっと大きな声をあげて泣き出した。
その瞬間、タマがまた前脚を持ち上げる。
さっきよりも、さらにゆっくりとした動きで、しかし、確かに娘さんの方へ。
私は、視界がにじむのを感じた。
タマの細い前脚が、空気をかき分けるように伸びていく。
「……ごめん」
娘さんが、かすれた声でつぶやいた。
そっと伸ばされた娘さんの手が、タマの前脚を包み込む。
タマの爪先が、ほんの少しだけ娘さんの指に食い込む。
それは、力強い握手というよりも、やっとつながった細い糸のようだ。
「タマ、ありがとう」
娘さんは、今度は静かに涙を流しながら言った。
「タマ、おかわりは?」
半分冗談のような、その一言。
タマは、わずかに間をおいてから、反対の前脚を持ち上げた。
さっきよりも、ずっと時間がかかる。
それでも、確かに、その脚は娘さんの手に向かって伸びていった。
娘さんがタマの手をそっと手のひらで受け止める。
私は、息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。
奇跡という言葉は、簡単には使いたくない。
けれど、今目の前で起きていることを、ほかに何と呼べばいいのか分からなかった。
「タマ、ありがとう。タマ、ごめんね。
苦しいのに、助けてあげられない。
タマが痛いのに、うちは代わってあげられへん。
本当にごめん。でも、タマといて楽しかった。
タマのいるこの家が、うちの一番の宝物やった」
娘さんは、もう声を荒げることなく、ただ静かに話し続けた。
それは、懺悔のようでもあり、感謝の言葉のようでもあった。
タマは、そのあいだずっと、娘さんに手をあずけたまま、
かすかに喉を鳴らしているように見えた。
「先生」
奥さんが、小さな声で私を呼んだ。
振り向くと、ご主人と二人で、深く頭を下げている。
「ありがとうございます。
タマのことは、家族で、きちんと見届けます」
その言葉に、私はうなずいた。
これ以上、この場にいるべきかどうか、少し迷ったが、私は往診バッグのファスナーを閉めた。
「タマは、よく頑張っています。
もう、無理に何かをさせる必要はありません。
そばにいて、声をかけてあげてください」
私はそれだけを告げて、静かにリビングを後にした。
外に出ると、空はすっかり暮れかけていた。
11月の冷たい風が、頬をなでていく。
タマは、きっと今夜か、遅くとも明日には旅立つだろう。
もう、獣医としてしてあげられることは、ほとんど残っていない。
それでも、この家には、7年分の思い出が、確かに満ちている。
病院に戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
診察も片づけも終わり、カルテをしまって時計を見る。
夜の7時を少し回ったところだった。
そのとき、受付の方から電話の音が鳴り響いた。
こんな時間にかかってくる電話は、多くない。
「はい、神谷動物病院です」
受話器を取って名乗ると、少し間をおいてから、聞き覚えのある声がした。
「先生……森です。タマが、さっき、息を引き取りました」
奥さんの声は、落ち着いていた。
「そうですか……。
最後まで、ご家族のそばにいられて、タマは幸せだったと思います」
そう答えると、受話器の向こうで、奥さんが小さくすすり泣く音がした。
その後、形式的なやり取りをいくつか交わし、電話を切る。
診察室にはもう誰もいない。
蛍光灯の白い光が、ステンレスの台に冷たく反射している。
私は、一人きりのその部屋で、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。




