第2話 最後のお手
4話で完了予定です。
往診バッグに、点滴セット、注射器、栄養剤、そして経鼻カテーテルを詰め込む。
雨は止んでいたが、空は鉛色の雲で低く垂れ込めている。
車のエンジンをかけながら、私はちらりと時計を見た。午後1時。
森家のある住宅街までは、車で10分ほどだ。
この7年で何度も通った道だが、今日は信号の1つ1つが、やけに長く感じられた。
タマは、どのくらい弱っているだろうか。
あの頑固な前脚で、まだ注射を拒む力が残っているだろうか。
森家の玄関の前に車をとめると、外壁に沿って置かれた植木鉢が、少しだけ寒々しく見えた。
チャイムを押すと、すぐに奥さんが出てきた。
きちんと整えられていたはずの髪が、今日は少し乱れている。
「先生、すみません。お忙しいのに」
「いいえ。タマはどこですか」
「リビングです。こっちへ」
通い慣れた廊下を抜けてリビングに入ると、窓際のいつもの座布団の上に、タマが横たわっていた。
以前はふわふわだった毛並みが、なんだかしおれているようだ。
呼吸は浅く、早い。胸が小刻みに上下している。
ご主人は、少し離れたソファの端に腰をかけていた。
腕を組み、じっとタマを見つめている。
いつものように抱きかかえようとはせず、ただ、そこにいるだけだ。
その沈黙の重さに、私は少し驚いた。
私はタマの体をそっと触り、体温と脱水の具合を確かめる。
皮膚をつまんでも、なかなか元に戻らない。
思った以上に、ギリギリの状態だ。
「かなり弱っています。口からは、もうほとんど何も入らないですね」
そう伝えると、奥さんが、困り果てたように口を開く。
「何とか、ならへんのでしょうか……」
「今できるのは、点滴と、少しでも栄養と薬を入れてあげることです」
私は経鼻カテーテルを取り出した。
細いチューブを見て、奥さんが小さく息をのむ。
「お鼻から管を通します。見た目はちょっと痛そうに見えるかもしれませんが、
喉の奥を通って胃に届けば、口からよりは楽に入れられます」
タマの頭をそっと押さえ、潤滑剤をつけたカテーテルを鼻孔に当てる。
ほんの少しだけ、タマの前脚がぴくりと動いた。
私は心の中で「ごめんな」とつぶやきながら、一気に管を通す。
喉を通るところで、タマの体がびくんと震えた。
奥さんが思わず目をそむける。
位置を確認し、チューブをテープで固定する。
そこから、ゆっくりと栄養剤と薬を流し込んでいく。
タマの表情は苦しそうだが、それでも、完全に意識が飛んでしまっているわけではない。
時折、かすかに尻尾が動いた。
「奥さん」
「はい」
「今、少しだけ栄養と薬が入りました。でも、これだけでは足りません。
家でも、少しずつでいいので、口からも何かを入れてあげてください」
奥さんは、不安そうな目で私を見る。
「でも、全然食べへんのです」
「普通のごはんは、もう難しいと思います。そこで、卵を使いましょう」
「卵……ですか?」
「生卵を一つ、よくかき混ぜてください。それを箸の先にちょっとだけつけて、
タマの口元に持っていって、舐めさせてあげてください」
奥さんは、少し戸惑いながらうなずいた。
「声をかけてあげてください。
名前を呼びながら、『タマ、ちょっとだけ食べよか』って、ゆっくり、ゆっくり」
口にしながら、私はこの家の中で、タマが一番よく懐いている姿を思い返していた。
ご主人が無理やり抱き上げているときの、あのうんざりした目。
奥さんがブラッシングをしているときの、諦め半分の顔。
そして、廊下の写真立ての中で、制服姿の女の子が、子猫のタマを抱いて笑っていたあの1枚。
「娘さんは、今日は?」
ふと口をついて出た質問に、奥さんが少しだけ目を伏せる。
「仕事が忙しいみたいで……。
タマがしんどいってことは、電話では伝えてるんですけどね」
その言い方に、少しだけ、責めるような響きが混じっていた。
私はそれ以上は何も言わず、カルテに今日の処置を記入する。
「今夜が山かもしれません。
ですから、奥さんも、ご主人も、できるだけそばにいてあげてください」
私はそう言ってから、玄関に向かった。
玄関先まで見送りに出てきた奥さんは、いつものように丁寧に頭を下げる。
「先生、また、明日も来ていただけますか」
「もちろん。明日の午後、また寄ります。
そのときまでに、卵を少しでも舐めてくれていたら、教えてください」
外に出ると、夕暮れの空はさらに暗くなっていた。
冷たい風が頬を打ち、白い息がふっと上にのぼっていく。
私は車のドアにかけた手を一瞬止め、振り返って窓を見る。
レースのカーテンの向こうに、タマの小さな影があるような気がした。
「タマ、もうひと踏ん張りやぞ」
心の中でそうつぶやき、私はハンドルを握る。
明日、もう一度ここに来る。そのとき、タマはどうしているだろう。
翌日の午後、森家の玄関の前に立つと、昨日よりも空気が冷たく感じられた。
チャイムを押すと、今日はいつもより少し時間があいてから、ドアが開いた。
「先生……どうぞ」
出てきた奥さんの顔は、昨夜よりも青ざめている。
目の下にはくっきりとくまができていて、眠れていないことが一目で分かった。
「タマは?」
「リビングです。あと……」
奥さんが少し言いよどんでから続ける。
「娘が、帰ってきています」
リビングに入ると、窓際の座布団のそばに、若い女性が膝を抱えて座っていた。
量の多い髪を後ろでひとまとめにしている。化粧は全くしていなくて、目は赤く腫れている。
表情はかたく、こちらに気づいても立ち上がろうとしなかった。
「先生、娘の……」
奥さんが紹介しようとしたのを、私は軽く会釈で制した。
「初めまして。獣医の神谷です」
娘さんは、うなずくような、うなずかないような動きをしただけで
その視線はタマに向いたままだった。
タマは、昨日と同じ座布団の上に横たわっていた。
胸の上下も小さくなっている。
それでも、経鼻カテーテルは外れずについていて、口元にはうっすらと卵の黄身がこびりついていた。
「卵は、舐めてくれましたか」
私が奥さんにたずねると、娘さんが先に口を開いた。
「ほんまに。ちょっとだけ」
声は低く、抑揚も少ないが、その中にかすかな疲労と切迫感がにじんでいる。
「そうですか。よく頑張りましたね、タマも」
私はタマの頭をそっとなでた。
すっかり乾いた鼻先が、かすかにひくっと動く。
昨日よりも、意識ははっきりしているようにさえ見えた。
私は体温や心拍を確認しながら、静かに口を開く。
「状態は、かなり厳しいです。
でも、まだ、自分で反応する力が残っています。
誰かが声をかけてあげると、きっと、それを励みにしているはずです」
タマが呼吸で胸を大きく上下させる
「タマ・・・うぐっ」
娘さんがタマの名前を呼びながら、しゃくりあげ泣きはじめた。
そのとき・・・
タマがゆっくりと、前脚を持ち上げた。
すうっと、空を払うように伸びていく小さな前脚。
その先が、震えながら、娘さんの方へ向かっていく。
「……え?」
娘さんが、驚いたように目を見開く。
タマの前脚は、ぎこちない動きで宙をさまよったあと、
そのまま娘さんの手の届くあたりで止まった。
反射的に、娘さんの手が伸びる。
手のひらで、タマの肉球を受け止める。
その瞬間、タマの爪先が、ほんの少しだけぎゅっと丸くなった。
まるで「お手」と言われたときの、あの仕草のように。
その仕草を見た瞬間、7年前のある夕方の光景が、ふいに頭に浮かんだ。
森家がまだこの町に越してきて間もない頃、
私はワクチン接種のあと、廊下でタマとじゃれている娘さんを見かけたことがある。
娘さんが真剣な顔で「タマ、お手」と言う。
『いや、猫はお手をしないよ。』
と心の中でつぶやいた。
しかし、次の瞬間、タマがすっと娘さんに手を伸ばす。
「タマ!ありがとう。めっちゃ嬉しい」
娘さんは、満面の笑みで本当に嬉しそうだ。
そして続ける。
「タマ、おかわり」
すると、タマは先ほどと反対の手を娘さんに伸ばす。
「タマ!おかわりも、ありがとうな!うち幸せやで」
どこか面倒くさそうに手を差し出すタマの姿は、
飼い主に褒められたいというより、子守をしているような雰囲気があった。
7年前すでに3歳だったタマは、いつのまにか娘さんより年上になっていたのだろう。
今、息をするのも苦しいはずのタマが、それでも前脚を伸ばし続けているのは、きっと「役目」なのだろう。
大好きだから、という一言では片づけられない、長い時間の中で身につけた義務感のようなもの。
娘さんを泣き顔にしてはいけない。
「お手」をすれば笑顔に変えることができる、というタマの自尊心だ。
「……タマ」
娘さんの喉から、押し殺した声が漏れる。
次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「タマ……」
最初は、声にならない嗚咽だった。
それがだんだんと大きくなり、やがてはっきりとした泣き声へと変わっていく。
「タマ……ごめん……ごめん……」
娘さんは、タマの前脚を握りしめたまま、肩を震わせて泣き続けた。
タマは目を細め、苦しい呼吸の合間を縫うように、そのたびに少しだけ前脚を動かす。
まるで、「ここにいるよ」と伝えようとしているかのように。
私は、そっと視線をそらした。
診察を続けるふりをして、聴診器の位置を変えたりしながら、二人の間の空気を邪魔しないようにする。
奥さんは、キッチンの入口のところでハンカチを握りしめて立ち尽くしていた。
ご主人は、部屋の隅の椅子に腰かけたまま、何も言わずにその光景を見つめている。
しばらくして、娘さんの泣き声が少しずつおさまってきた。
呼吸はまだ乱れているが、声にはならない。
タマの前脚も、ゆっくりと座布団の上に戻りかけていた。
「タマ、お手なんか、もうしなくていいから」
唐突に、娘さんが声を上げた。
涙で濡れた顔を上げ、タマを見下ろしながら、はっきりとした口調で続ける。
「お手なんか、もうしなくていいから、元気になってよ!」
静かなリビングに、その大きな声が響いた。
病気の猫の前では、あまり大声は出してほしくない。
そう思う一方で、その言葉の必死さが痛いほど伝わってきた。
タマは、娘さんの声に反応するように、また前脚を持ち上げた。
さっきよりも、動きはゆっくりで、重たそうだ。
それでも、確かに、娘さんの方へ向かっている。
娘さんは、今度はそっとその手を受け取り、軽く握った。
奥さんが、小鉢と箸を持ってくる。
かき混ぜられた生卵が、黄色い筋を引いている。
娘さんが小鉢と箸を受け取る。
先端にほんの少し卵をつけて、タマの口元に近づける。
そして、穏やかに語りかける。
「タマ。ねえ、タマ。食べて。元気になって。」
タマは、かすかに顔を動かし、箸の先に触れた。
そして、信じられないほどゆっくりと、舌が動き始める。
ぺろ、ぺろ、と。
わずかな卵を、必死で舐め取ろうとする。
「タマ……」
娘さんの目から、また涙がこぼれ落ちる。
それでも、今度は声を上げて泣きはしない。
涙を拭おうともせず、ただ箸を持つ手だけを震えながら支えている。
しかし、時間の経過は残酷だ。
数口ほど舐めたあと、タマの舌の動きは止まり、呼吸だけが荒くなっていった。
体の力も、みるみるうちに抜けていくのが分かる。
「タマ、苦しそう……。見てられへん」
娘さんが、かすれた声で言った。
さっきまでの静かな涙が、一気に決壊する。
「タマ、苦しいんやったら、もうええやん……。
こんな苦しい思いさせてまで生かすの、可哀そうやん……」
その言葉とともに、また大きな泣き声が部屋に響いた。
タマは、再び前脚を持ち上げる。
今度は、さっきよりもはっきりと、娘さんの手を求めるように、まっすぐに。
だが、娘さんはその手を取らなかった。
両手で顔を覆い、うつむいたまま肩を震わせている。
私は、その光景を見ながら、胸の奥がぎゅうっと締めつけられるのを感じた。
タマにとって、おそらく、この世でいちばん特別な人間は、この娘さんなのだろう。
10年前、子猫だったタマは、思春期の彼女と一緒に成長してきたのだ。
その間に、何度「お手」をしたのだろう。
何度、娘さんを笑顔にしたのだろう。
タマは今、その記憶だけを頼りに、前脚を差し出している。
「お手」と言われるなくても、飼い主の涙を笑顔に変えるために。
「先生」
突然、娘さんが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった目が、真っ直ぐに私をとらえる。
「先生、タマ、死ぬんですよね。
どうせ死ぬなら、苦しまないように、安楽死とか、できないんですか」




