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獣医の涙  作者: 森好子


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第1話 森タマという猫

全4話の予定です。


 バブルが弾けて数年たった11月の終わり、冷たい雨が降ったりやんだりしていた。

 景気も空気も、どことなく湿っている。

 開院して10年になる、うちの小さな動物病院のカルテ棚には、「森タマ」というファイルが一番手前に差してある。

 7年前に、関西からこの町に引っ越してきた森家の猫だ。


 タマ。

 ペルシャ、オス。血統書付き。関西のペットショップで買ったらしい。

 ペルシャのオスにしては拍子抜けするほど古風な名前だが、

 飼い主の1人である奥さんから聞くところによると、丸まって眠る姿が「玉子」みたいで最初は「タマゴ」と

 呼んでいたが、いつのまにか省略されて「タマ」になったのだそうだ。


 森家がここに来たとき、タマはすでに3歳だった。

 つまり、今は10歳。人間なら、もう立派な中年から初老の年齢だ。

 その10年のあいだ、戸外を一歩も歩いたことがない完全な家猫。

 ゲージこそ使っていないが、玄関も窓も、タマのために常に気をつけているという。

 最近は珍しくない飼い方だが、あの頃にしては徹底していた方だろう。


 最初に森家がやってきたのは、7年前の春先だった。

 受付で問診票を書いている奥さんの横で、キャリーケースの中のタマは、ふわふわの毛を揺らしながら、

 じっとこちらをにらんでいた。

 扉を開けた瞬間、ひと鳴きもせずに、ただ目だけで「何するつもりや」と言ってくるタイプの猫だった。


「お名前は?」

「タマです」


 診察台の上でじっと固まっているくせに、採血のときは猫パンチで必死に抵抗する。

 こちらも毎回ひと苦労させられた。


 森家の家族構成は、カルテの端にメモされている。

 ご主人会社員。奥さんパート。7年前高校生だった娘さんは今は会社員だそうだ。

 この7年で、何度か往診にも行ったが、3人が揃っているところを見たことはほとんどない。


 ご主人は、いかにもエンジニアという風貌の、無口で気むずかしそうな男だ。

 しかしタマに対しては、誰よりも距離が近い。

 露骨に嫌がってもおかまいなしに抱きあげ、顔をうずめて「タマ〜」と頬ずりしている。

 タマは前脚を突っ張って、「やめろ」と全身で意思表示をしていたが、爪だけは決して出さなかった。


 奥さんは、きちんと化粧をして来院するタイプで、いつも上品な笑顔を絶やさない。

 猫にも思わず敬語を使いそうな雰囲気で、「タマさん、ごめんなさいね」と言いながら

 キャリーに強引に押し込んでいるのを見たことがある。

 表と裏がはっきりしている人なのだろう、と勝手に推測している。


 娘さんは、数えるほどしか見たことがない。

 短大を出てからは家を出て働いているらしく、たまの帰省もタイミングが合わない。

 美人というより、個性的な顔立ち。

 こちらを見ているのか見ていないのか分からない目をしていて、

 抑揚のない、機械のような調子でしゃべる。

 人付き合いは得意ではなさそうだった。


 そんな森家とタマとの7年間は、病院のカルテよりも、往診の記憶の方が色濃く残っている。

 猫ジステンパーの予防注射、年に一度のワクチン、少し太り気味になった頃の食事指導。

 そして去年からは、腎臓の数値がじわじわと悪くなり始めていた。


 血液検査の結果表に、赤ペンで印をつけながら、私は何度か説明した。


「猫の腎臓は小さいので、悪くしやすいんです。

 この子はあと1年で10歳ですから、そろそろいろいろ出てきてもおかしくない年です。

 水をよく飲ませてあげて、療法食にゆっくり切り替えていきましょう」


 奥さんは、真剣な顔でうなずき、ご主人は難しい顔で数値を覗き込む。

 それでも、タマのためならと、療法食の値段にも文句を言わなかったのは、立派だと思った。


 それから1年。

 秋の終わり頃から、タマは急に痩せてきた。食欲も落ち、水だけはよく飲む。

 点滴に通ってもらいながら、だましだまし日々をつないできたが、

 11月の終わりになって、とうとう奥さんから電話がかかってきた。


 「先生、タマが……もう、まったく食べなくなってしまって……」


 受話器越しの声は、いつもの落ち着いた調子ではなく、かすかに震えていた。

 私はスケジュール帳を一目見てから、「すぐにうかがいます」と答えた。


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