第8話 正しい人生へ
翌週から、湊は矯正プログラムを受講した。
週二回、放課後三十分。小さな部屋で、画面に向かう。AIが質問する。 湊が答える。 感情の整理と、再最適化。 それだけだった。
「今週、誰かのことを考えましたか」
「はい」
「その人物への感情を、言葉で表現してください」
湊は少し止まった。
「好意を持っていました」
「その感情は今も継続していますか」
「……いいえ」
嘘だった。
でも今回の嘘は、最初の嘘と違った。最初は言葉が出なかった。 今回は、出した。システムに合わせた言葉を、自分で選んで、出した。
それが何を意味するか、湊にはわかっていた。
十一月になった。
ルカが来たのは九月だった。いなくなったのも九月だった。一ヶ月に満たない時間だった。
プログラムの効果は、数字に出た。
学習効率、回復。解答速度、回復。感情制御能力、S判定継続。内定先からの懸念通知も、取り下げられた。
藤堂が廊下で声をかけてきた。
「戻ってきたな」
湊は会釈した。
何も言わなかった。
ルカの席には、十月の半ばに新しい生徒が来た。
男子だった。真面目そうな、適応能力の高そうな生徒だった。端末の扱いも慣れていて、推奨プログラムを淡々とこなしていた。
湊は隣を見なくなった。
見る必要がなかった。
ただ一度だけ、その生徒がノートに何かを書いているのを見た。 計算式だった。 当たり前だった。 それ以外の何かであるはずがなかった。
湊は前を向いた。
冬が来た。
山に雪が積もった。鬼無村の冬は早い。谷間に光が届く時間が、さらに短くなった。
湊はスケジュール通りに生きた。
朝六時十五分に起きた。推奨の朝食を食べた。学校へ行き、授業を受け、帰宅して勉強した。感情ログは毎日「平常」を記録した。
それは正しかった。
ただ一つだけ、正しくないものがあった。
机の引き出しの中に、スケッチブックがあった。
捨てられなかった。
捨てるべきだということは、わかっていた。 プログラムの担当AIも、不必要な感情の誘発物は整理するよう推奨していた。でも引き出しを開けるたびに、手が止まった。
最後のページを、一度だけ、また開いた。
「エラーで、よかった」
湊は引き出しを閉めた。
それだけだった。
春になった。
卒業式は、静かだった。
泣く生徒はいなかった。 歓声もなかった。 証書を受け取り、礼をして、席に戻る。それが三十回繰り返された。粛々と、正確に、終わった。
湊は校門を出るとき、一度だけ振り返った。
建物を見た。廊下を思い出した。屋上を思い出した。美術室を思い出した。
川を思い出した。
石が三度、跳ねた。
湊は前を向いて、歩いた。
東京の会社は、静かだった。
オフィスに感情の摩擦はなかった。全員が最適化された人材で、 会議は短く、成果は数値で管理された。湊はその中で、正確に機能した。
スコアは上がり続けた。
三年目に、推奨された相手と結婚した。
同じ会社の、感情制御能力Aの 女性だった。 穏やかで、賢くて、正しかった。 湊との相性スコアは九十二点だった。結婚式は滞りなく終わった。
その夜、湊は荷物の中からスケッチブックを出した。
引越しのとき、捨てようとした。でも箱に入れていた。
最後のページを開いた。
「エラーで、よかった」
文字は薄くなっていた。何年も経っていた。
湊はそれを見て、何も感じなかった。
感じなかった、と思った。
でも少しだけ、手が止まった。
湊はスケッチブックを閉じて、押し入れの奥に入れた。
子供が生まれた。
男の子だった。 端末が名前の候補を三つ出した。 湊は真ん中の候補を選んだ。 理由は、語感が推奨基準を満たしていたからだ。
子供は正しく育った。
スコアは高く、感情制御は安定し、学習効率は湊を超えた。 先生たちは褒めた。端末は「優良な発達段階」と記録した。
湊は、それを見て、正しいと思った。
正しかった。
ずっと、正しかった。
ある秋の夕方、湊が帰宅すると、子供が玄関に座っていた。
十六歳になっていた。
うつむいていた。
湊は鞄を置いて、声をかけた。「どうした」
子供は顔を上げなかった。
「……好きな人が、いる」
湊は、動かなかった。
「でも」子供は続けた。 「その人、スコアが低くて。先生に、推奨しないって言われた。でも、会いたいんだ。理由はわからない。ただ、会いたい」
湊は子供の横に、静かに座った。
廊下の窓から、夕暮れが入ってきていた。
橙色の光だった。
湊はその光を見ながら、遠い秋を思い出していた。 美術室の窓から差し込んでいた、 あの光を。横顔を染めていた、あの橙色を。
子供が言った。
「父さん、どうすればいい」
湊は少し間を置いた。
長い間を置いた。
それから静かに言った。
「……わからない」
子供が顔を上げた。
「でも」湊は窓の外を見た。「理由のわからないことが、一番、本物だったりする」
子供は黙っていた。
湊も黙っていた。
二人で、夕暮れを見ていた。




