第7話 ルカが消える
火曜日の朝、ルカの席が空だった。
湊は自分の席に着いて、隣を見た。椅子がある。机がある。 でも人がいない。それだけのことだった。遅刻かもしれない。体調不良かもしれない。理由はいくらでもあった。
でも湊は、この空席がいつもの空席と違うことを、説明できない方法で知っていた。
藤堂がホームルームを始めた。 ルカについて、何も言わなかった。
昼休み、屋上に行った。
誰もいなかった。
湊はいつもの場所に座って、弁当を開いた。食べながら、山を見た。山は変わらなかった。昨日と同じ場所に、同じ重さで、立っていた。
風が来た。
湊は弁当を閉じた。食欲がなかった。食欲がない、という状態を、 湊はこれまで病気のときしか経験したことがなかった。端末を見た。 体調スコアは八十七点だった。健康に問題はない。
でも弁当は、閉じたままだった。
放課後、湊は美術室に行った。
ルカはいなかった。
でも机の上に、スケッチブックが置いてあった。
湊はそれを見て、立ち止まった。ルカのものだった。表紙に小さな傷がある、あのスケッチブックだった。忘れていったのか。それとも、置いていったのか。
手に取った。
開いていいかどうか、一秒だけ考えた。
開いた。
最初のページは、川岸の石垣だった。先週の土曜日に描いたものだ。隙間に草が生えた、苔むした石垣。湊が「欠陥が時間で変わる」と言った、あの絵だった。
次のページは、山だった。 重たい、朝靄の山だった。
その次も、山だった。
湊はページをめくり続けた。
途中から、山ではないものが現れた。
廊下だった。鬼無村高校の、窓のある廊下。でも人物が一人、描かれていた。窓の外を見ている、後ろ姿の人物。制服を着ていた。
湊だった。
湊自身が、気づかないうちに描かれていた。
次のページも、湊だった。屋上で弁当を食べている。山の方を向いている横顔。
次も。
その次も。
湊は手が止まった。
自分が、こんな顔をしていたのか。ルカの鉛筆が描いた湊は、湊が知っている自分の顔と、少し違った。もっと、何か——柔らかいものが、そこにあった。
最後のページに来た。
白紙ではなかった。
川が描かれていた。土曜日の、 あの川だった。水面に波紋がある。石が跳ねた直後の、あの川面だった。
そのページの端に、小さな文字があった。
鉛筆で、急いで書いたような字だった。
「エラーで、よかった」
それだけだった。
湊は藤堂を探した。
職員室に行って、初めて自分から声をかけた。
「雨宮さんは、どこにいますか」
藤堂は少し間を置いた。
「それは」
「どこにいますか」
藤堂は端末を見た。それから湊を見た。
「感情適応支援センターに移送された。昨夜、保護者の同意を得て」
「感情適応支援センター」
「感情制御に困難を抱える生徒のための施設だ。適切なケアを受けられる」
湊は黙っていた。
「戻ってくるんですか」
「それは、本人次第だ」
藤堂はそれ以上、何も言わなかった。
湊は職員室を出て、廊下を歩いた。
どこへ向かうのか、自分でもわからなかった。ただ歩いた。廊下が終わって、外に出た。校庭を横切って、校門を出た。
川岸に来ていた。
土曜日に、ルカと並んで座った場所だった。
湊は座った。
川は変わらなかった。同じ速さで、同じ方向に、流れていた。
スケッチブックを持ってきていた。気づいたら手の中にあった。 湊はそれを膝の上に置いて、最後のページを開いた。
「エラーで、よかった」
湊は、この言葉の意味を考えた。
エラーとは、自分のことだ。システムから外れた、スコアの下がった、矯正プログラムを無視した、自分のことだ。
そのエラーが、よかった。
ルカはそう言った。
湊はその言葉を、何度も読んだ。
読むたびに、何かが来た。
波のように来て、引いて、また来た。
名前を知らなかった。こういうとき、何という名前の感情があるのか、湊のデータにはなかった。
ただ、目が、熱かった。
湊は川を見た。
水面に光が散っていた。
石を一つ、拾った。平たい石だった。水平に、投げた。
石は三度、跳ねた。
誰も見ていなかった。
今度は、口の端が上がったことに、気づいていた。
でも笑えなかった。
笑えなかったのに、目から何かが来た。
湊は初めて、泣いた。
理由はわかっていた。
説明はできなかった。




