第6話 矯正指導
月曜日の朝、母親が湊を呼んだ。
朝食の席だった。 父はすでに出勤していて、テーブルには母と湊だけがいた。 母は端末を持っていた。 湊のものではない。 保護者用の連携端末だった。
「学校から通知が来ました」
母は画面を向けた。
「お子様の学習効率が継続的に低下しています。保護者の方へのご協力をお願いします」
それだけだった。 短い文章だった。 でも母の表情は、湊が見たことのないものだった。 心配と、困惑と、もう一つ何か——うまく言えない感情が混ざっていた。
「何かあったの」
「ありません」
「でも、スコアが」
「一時的なものです。改善します」
母はしばらく湊を見ていた。
それ以上、何も言わなかった。
湊は朝食を終えて、立ち上がった。母の視線が、背中に残っていた。
一時間目が始まる前に、藤堂に呼ばれた。
今度は面談室ではなかった。 職員室の、藤堂の席だった。 隣に、知らない大人が座っていた。スーツを着た、四十代くらいの男だった。
「こちらは教育管理局の方だ」
湊は椅子に座った。
「神崎湊くん」男は端末を開いた。「率直に話します。あなたのここ二週間のデータは、看過できないレベルの低下を示しています。 感情矯正プログラムへの返答もない。このまま放置すれば、内定先への報告が必要になる」
湊は黙っていた。
「原因はわかっています」男は続けた。
「転入生との接触です。雨宮ルカ。彼女の評価データはご存知ですよね」
「はい」
「彼女は現在、要観察対象になっています。前の学校での問題行動の記録もある。あなたのような優秀な生徒が影響を受けるのは、システム上の損失です」
損失。
湊はその言葉を聞いて、何かが 胸の中で固くなった。
初めての感覚だった。固くなる、というのが正確かどうかわからない。でも、それまでとは違う何かが、静かに湧いてきた。
「矯正プログラムの受講を、今週中に開始してください。それが条件です」
男は端末を閉じた。
「いいですね」
湊は答えなかった。
藤堂が横から言った。 「神崎。返事を」
「……はい」
声だけが、出た。
その日の昼休み、湊は屋上に行かなかった。
廊下のベンチに座って、端末を見ていた。矯正プログラムの受講登録画面が開いたままになっていた。送信ボタンの上に、指を置いた。
押せなかった。
なぜ押せないのか、湊はそれを考えた。考えると、答えが出た。
プログラムを受ければ、スコアは戻る。内定は守られる。正しい人生が続く。それはわかっていた。
でも。
あの川岸の午後が、なくなる気がした。
石が二度跳ねた瞬間が。 ルカの笑い声が。 自分でも気づかなかった、口の端の動きが。
なくなる、という確信があった。根拠はなかった。でも確信だけがあった。
湊は送信ボタンから指を離した。
放課後、美術室に人影があった。
ルカではなかった。 藤堂ともう一人、教師が立っていた。ルカは椅子に座らされていた。机の上に、スケッチブックが開かれていた。
湊は扉の外から、廊下に立ったまま、その場面を見た。
「これは何を描いたんですか」
教師の一人が言った。
湊からは絵の内容が見えなかった。でもルカの表情は見えた。 真っ直ぐな顔だった。怖がっていない。怒ってもいない。ただ、真っ直ぐだった。
「山です」
「山に見えない。これは」
「私には山に見えます」
「感情的な表現は推奨されていません。これは指導対象になります」
「山を描いたら指導されるんですか」
ルカの声は、平静だった。でも平静の中に、何かが張っていた。 切れる一歩手前の糸のような、そういう緊張があった。
湊は廊下に立ったまま、動けなかった。
中に入るべきか。入って何を言うのか。入ることで何が変わるのか。考えても答えが出なかった。
ルカがふと、扉の方を見た。
目が合った。
ルカは一瞬だけ、湊を見た。それから静かに視線を戻した。
その一瞬の中に、何かがあった。湊には読み取れなかった。でも、何かがあった。
その夜、湊は眠れなかった。
天井を見ながら、今日一日を 順番に思い出した。母の表情、男の言葉、「損失」という単語。廊下で見たルカの、真っ直ぐな顔。目が合った一瞬。
湊はそこで、初めて、一つの言葉を自分に向けた。
好きだ。
声に出さなかった。心の中で、そっと置いてみただけだった。
言葉は、静かにそこに留まった。
否定できなかった。 論理で崩せなかった。 端末に相談しようとして、止めた。システムに入力できる言葉ではなかった。
湊は目を閉じた。
好きだ、という言葉の意味を、 湊はデータとして知っていた。 好意、愛着、引力——辞書的な定義は全部知っていた。
でも今夜初めて、それが自分の中にあると、わかった。
知識として知っていたものが、急に質量を持った。そういう感じだった。
湊は布団の中で、動かなかった。
外では、風が山から下りてきていた。
鬼無村の夜は静かだった。
その静けさの中で、湊の中だけが、少し騒がしかった。




