第5話 それでも近づく
土曜日の午前、湊は推奨スケジュール通りに勉強を終えた。
午後の推奨は「自由時間」だった。端末の言う自由時間とは、読書か軽い運動か、資格取得の自学習を指す。湊はその三択を眺めて、端末を置いた。
外に出た。
理由は言語化しなかった。
鬼無村の中心部は小さかった。
商店が数軒、郵便局、農協、 小さな神社。それだけだった。 湊は普段、用がなければここには来ない。来る必要がないからだ。
川沿いの道を歩いていたとき、スケッチブックを抱えた人影が見えた。
ルカだった。
川岸に座って、対岸の古い石垣を描いていた。湊に気づいて、軽く手を上げた。驚いた様子はなかった。まるで来ることがわかっていたように。
「散歩?」
「……そんなところです」
「座る?」
湊は川岸に腰を下ろした。
土が少し湿っていた。制服が汚れるかもしれなかった。それでも立ち上がる気にはなれなかった。
ルカは黙って描き続けた。
湊は川を見ていた。
水の音がした。山から下りてくる水で、透明だった。底の石まで見えた。流れは速くなく、遅くもなく、ただ続いていた。
「神崎くんって、休日何してるの」
「スケジュール通りに勉強を」
「それ、休日じゃなくない?」
「効率的な時間の使い方です」
「ふうん」
ルカは鉛筆を動かしながら言った。「楽しい?」
また、その質問だった。
今度は湊も、少し慣れていた。慣れた、というより、この問いに答えがないことを、受け入れ始めていた。
「楽しいかどうかを、考えたことがありませんでした。今週、初めて考えました」
「どうだった?」
「わかりませんでした」
ルカが笑った。今度は少し長い笑いだった。川の音に混じって、湊の耳に届いた。
「正直だよね、ほんとに」
「嘘をついても」
「仕方ない、でしょ」ルカは湊の言葉を引き取った。 「知ってる。でもそれ、すごいことだと思う」
「何が」
「知らないことを、知らないって言える人、あんまりいないから」
湊は川を見たまま、その言葉を受け取った。
整理しなかった。ただ、受け取った。
しばらくして、ルカがスケッチブックをこちらに向けた。
石垣の絵だった。苔むした古い石が、丁寧に積み重なっていた。隙間に草が生えていて、その草まで描かれていた。
「どう?」
「……石垣の、隙間が気になります」
「気になる?」
「設計として見ると、隙間は欠陥です。でも、その隙間に草が生えて、絵になっている。欠陥が、時間をかけて何かに変わっている」
ルカは絵を見た。
「それ、すごくいいこと言った」
「そうですか」
「うん」ルカはスケッチブックを閉じた。「欠陥が時間で変わる、か。この村の言い伝えって、そういうことかもしれないね。失敗を記録して、次に活かす。欠陥を埋めていく」
「そのはずです。でも」
「でも?」
湊は少し止まった。
「埋められない欠陥も、あるのかもしれません」
川が流れていた。
ルカは何も言わなかった。言わないまま、また川の方を向いた。
湊は自分が今、何を言ったのか、あとからゆっくり気づいた。
昼になって、ルカが立ち上がった。
「お腹すいた。コンビニ行く」
「では、私は」
「一緒に来ればいいじゃん」
当たり前のように言った。
湊は一秒だけ考えて、立ち上がった。
コンビニは村の入り口にある一軒だけだった。
ルカはサンドイッチとコーヒーを選んだ。湊は推奨カロリー内のおにぎりを二つ。レジで会計をしようとしたとき、ルカが先に出した。
「いいです、自分で」
「おごりじゃないよ。あとで半分ちょうだい」
「半分?」
「おにぎり、一個」
湊は財布を持ったまま、止まった。
推奨外の行動だった。 食事の管理は個人単位が基本で、 他者との共有は栄養計算を複雑にする。端末はそう教えていた。
湊はおにぎりを一個、ルカに渡した。
それがひどく自然なことのように思えた。
川岸に戻って、並んで食べた。
しばらく何も言わなかった。
ルカがコーヒーを飲みながら、 ふと言った。
「神崎くんって、笑ったことある?」
「笑う、とは」
「声出して笑う。おかしいとか、嬉しいとか、そういうときに」
湊は考えた。
笑顔を作ることはある。 社交的推奨行動として、表情筋を 使う場面がある。でもルカが言っているのは、そういうことではない気がした。
「……意識して笑ったことはありますが、思わず笑ったことは」
「ないんだ」
「ないと思います」
ルカはしばらく川を見ていた。
それから立ち上がって、石を一つ拾った。平たい石だった。川に向かって、横に投げた。石が水面を二度、跳ねた。
「できた」ルカが小さく言った。
本当に小さな声だった。自分に言い聞かせるような声だった。でもその声に、確かに喜びがあった。
湊はそれを見ていた。
見ていて、何かが胸の中で、温かくなった。
温かい、という感覚を、湊は身体で知っていた。気温や、食事や、入浴の話だ。でもこれは、そのどれでもなかった。身体の芯の方から来る、説明のできない温度だった。
「やってみる?」ルカが振り返って言った。
「水切りですか」
「うん。コツあるよ。石を立てないで、なるべく水平に投げる」
湊は立ち上がった。
石を拾った。平たいものを選んだ。ルカの言う通り、水平に意識して投げた。
石は一度だけ跳ねて、沈んだ。
「惜しい。もう一回」
二度目は、跳ねなかった。
「もう一回」
三度目、石が二度跳ねた。
湊は、声を出さなかった。 でも口の端が、少し上がっていた。
ルカがそれを見て笑った。
「今、笑った」
「……そうですか」
「うん。気づいてなかったでしょ」
湊は川を見た。
水面に、小さな波紋がまだ残っていた。
気づいていなかった。初めてのことだったのに、気づかないうちに起きていた。
それが、湊には少し、怖かった。
家に帰って、端末を開いた。
矯正プログラムの通知が、三件目になっていた。件名が変わっていた。
「早急な受講を推奨します」
湊はその通知を、今度は長く見た。
長く見て、閉じた。
代わりに、メモアプリを開いた。何かを書こうとして、止まった。
書きたいことは、言葉にならなかった。
石が二度、水面を跳ねた。口の端が上がっていた。気づかないうちに起きていた。
湊はメモアプリを閉じた。
端末を置いて、天井を見た。
何かが、確実に変わっていた。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
今夜の湊には、もう、判断できなかった。




