システムの警告
金曜日の朝、端末に新しい通知が届いた。
件名は「感情矯正プログラムの受講を推奨します」。
本文には、今週の湊のデータが並んでいた。 学習効率低下、睡眠スコア低下、 解答速度低下。それぞれの数値の 隣に、原因として「対人接触の偏り」という分析が添えられていた。
プログラムは週二回、放課後三十分。 内容は「感情の整理と再最適化」。受講者の九十一パーセントが、四週間以内にスコアを回復しているという実績データもついていた。
湊はその通知を、三分間、見つめた。
三分間というのは、湊にとって異常な時間だった。通常、通知の処理は十秒以内に終わる。 確認して、対応して、閉じる。 それだけだ。
湊は端末を閉じた。
受講の返答は、していなかった。
一時間目、英語の授業中だった。
教師が長文読解の問題を出した。湊は本文を読み始めた。 内容は入ってくる。理解もできる。でも設問の四番で、手が止まった。
問い。「主人公が約束を破った理由として最も適切なものを選べ」
選択肢は四つあった。 どれも論理的には正しく見えた。 湊はそれを何度も読んで、選べなかった。
主人公は、好きな人が泣いているのを見て、別の場所への約束を忘れた。それだけの話だった。
理由など、ない。
泣いているから、そばにいた。 それだけだ。
湊は結局、最も「合理的」に見える選択肢を選んだ。答え合わせで、それは間違いだった。正解は「気持ちが抑えられなかったから」だった。
気持ちが抑えられない、という状態を、湊はまだ知らなかった。
いや。
知らなかった、という表現は、 もう正確ではないかもしれなかった。
昼休み、屋上に行くかどうか、湊は廊下で一度立ち止まった。
藤堂に言われたことは、覚えていた。交流を推奨しない。それは明確な指示だった。端末の矯正プログラムも、同じ方向を指していた。 システムが出している答えは、一致していた。
屋上への階段を、湊は上った。
ルカはいた。いつものサンドイッチと、スケッチブックを持って、端の柵に寄りかかっていた。湊が来たのを見て、特に驚かなかった。当たり前のように、隣のスペースを空けた。
「昨日の夕方、ありがとう」湊は座りながら言った。
「何が?」
「美術室で、入れてくれたので」
「別に」ルカはスケッチブックを開いた。「一人より、誰かいた方が描けるときもあるから」
湊はそれを聞いて、少し考えた。
「私がいると、描けるんですか」
「神崎くんはうるさくないから」
褒め言葉なのかどうか、湊には判断できなかった。 でも悪い気はしなかった。それも、判断できなかった。
しばらく沈黙が続いた。
ルカが鉛筆を動かす音と、遠くの山から来る風の音だけがあった。 湊は弁当を食べながら、その音を聞いていた。
「ねえ、聞いていい」
ルカが先に口を開いた。
「何を」
「なんで私と話すの?」
湊は箸を止めた。
「推奨されてないんでしょ、私と接触するの」ルカはスケッチブックを見たまま言った。 「藤堂先生に呼ばれたでしょ。私、ああいうの見ててわかるから」
湊は答えなかった。
「いいよ、怒ってないから。ただ聞きたかっただけ」
「……わかりません」
ルカの鉛筆が、止まった。
「わからない?」
「なぜ話しかけるのか、説明できません。目的も、理由も、明確にできない。でも」
湊は山の方を見た。
「来てしまいます、ここに」
ルカはしばらく黙っていた。 それから、また鉛筆を動かし始めた。
「正直だね」
「嘘をついても、意味がないので」
「そっか」
ルカの声が、少し柔らかくなった気がした。湊には気のせいかどうか、判断できなかった。
「私がなんで転入してきたか、知りたい?」
突然、ルカが言った。
「……話してくれるなら」
「前の学校で、問題起こしたの」 ルカはあっさり言った。 「美術の時間に、推奨外のテーマで絵を描いた。戦争の絵。 先生が止めに来て、言い合いになって、それで」
「推奨外のテーマ」
「感情を乱す表現は、カリキュラムに含まれないんだって。 でも私は、乱れない絵なんて描きたくなかった。 怖いものとか、悲しいものとか、 そういうのを描かないと、絵じゃない気がして」
湊はそれを聞いて、何も言えなかった。
「この村に来たのは、祖母が住んでるからなの。しばらくここにいることになって」ルカはスケッチブックを閉じた。「古い村でしょ、ここ。言い伝えとか、昔からのルールとか、そういうのが多い。最初は嫌だと思ったけど」
「でも?」
「山が、よかった」
ルカは空を見上げた。
「重たくて、古くて、でも嘘がない感じ。ここの山は、きれいに見せようとしてないから」
湊はその言葉を、そのまま受け取った。
整理しようとしなかった。 分析しようとしなかった。 ただ、そうか、と思った。
それだけで、十分な気がした。
夕方、湊は端末を開いた。
矯正プログラムの通知が、まだ返答待ちになっていた。
受講する、しない。二択だった。
湊は画面を閉じた。
返答は、また、しなかった。
それが何を意味するのか、湊にはわかっていた。システムへの不服従の始まりだということも、わかっていた。
でも今夜は、ルカが言った言葉の方が、頭の中に残っていた。
嘘がない感じ。
きれいに見せようとしていない。
湊は窓の外の山を見た。
暗くなった山は、輪郭だけになっていた。それでも、そこにあった。
湊は初めて、山を、重たいと思った。




