第3話 推奨されない感情
木曜日の朝、湊の端末に二件目の通知が届いた。
一件目は学習効率低下アラートの続報。 今週の平均解答速度が、先週比で三・二パーセント低下しているという内容だった。
二件目は、それより短かった。
「担任との面談を推奨します。 日時:本日放課後」
湊は二件とも既読にして、端末をポケットに入れた。
窓の外、山に朝靄がかかっていた。いつもと同じ景色だった。 でも湊はその朝靄を見て、ルカが言った言葉を思い出した。
重たい感じがして。
長い時間が積み重なってる。
意味はわかる。 でも感じるかどうかは、別の話だ。湊にはその区別が、うまくできなかった。
五時間目、現代文の授業だった。
教科書に載っているのは、明治時代の短編小説だった。藤堂が音読を指示し、当てられた生徒が順番に読んでいく。湊は自分の番が終わり、次の生徒の声を聞きながら、本文を目で追っていた。
主人公が、好きな人に会いに行く場面だった。
理由は書かれていなかった。 会いたいから、会いに行く。それだけだった。
湊はそこで、ふと手が止まった。
会いたい。
その感情を、湊は持ったことがあるだろうか。 人と会うのは、目的があるときだ。情報交換、協力作業、推奨される社交。すべてに理由がある。理由のない「会いたい」は、湊の語彙の中に存在しなかった。
少なくとも、今週の月曜日までは。
横の席が、今日は空だった。
ルカは遅刻していた。 理由は聞いていない。 でも湊は授業が始まってから三度、その空席に視線を送っていた。三度目に気づいて、前を向いた。
端末が静かに振動した。 感情ログの自動記録だった。
画面には「平常」と表示されていた。
湊は、それが正確かどうか、初めて疑った。
ルカが教室に来たのは、六時間目の十分前だった。
藤堂は何も言わなかった。ルカも何も言わなかった。 ただ席に着いて、ノートを開いた。
湊は前を向いたまま、気配だけを感じていた。
隣に人がいる。それだけのことが、なぜかわかった。同じ教室に 三十人いるのに、その一人だけが、輪郭を持って存在している感じがした。
そういう感覚にも、湊は名前を知らなかった。
放課後、湊は藤堂の部屋に向かった。
面談室は職員棟の端にある。 窓のない、狭い部屋だった。 藤堂はすでに椅子に座っていて、 端末の画面を湊に向けた。
「見なさい」
湊の今週のデータだった。学習効率、解答速度、集中力指数。全項目で微細な低下が記録されていた。
「原因に心当たりは」
「ありません」
嘘だった。
湊は生まれて初めて、藤堂に嘘をついた。
「転入生と接触が増えているようだが」
藤堂は端末をスクロールした。 行動ログだった。昼休みの屋上、 二日連続。休み時間の廊下での 会話、一件。湊は自分の行動が記録されていることを知っていた。 知っていたが、それが面談の材料になるとは思っていなかった。
「雨宮ルカの適性評価は、君も知っているな」
「……カリキュラム適応外、と」
「感情制御能力C。衝動性A。芸術傾向、危険判定」藤堂は端末を閉じた。「交流を推奨しない相手だ」
湊は黙っていた。
「神崎。君はこの村の最適化教育の、最も優れた結果の一つだ。 来年の就職まで、レールを外れる必要はない。わかるな」
「はい」
湊は答えた。
その返事が、どこか遠くから来ている気がした。
面談を終えて廊下に出ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。
帰ろうとして、湊は足を止めた。
美術室の前だった。
扉が少し開いていて、中から鉛筆の音が聞こえた。紙の上を、何かが走る音。湊は立ち止まって、その音を聞いた。
規則的ではなかった。止まったり、速くなったり、また止まったり。でも途切れなかった。
扉の隙間から、ルカが見えた。
窓に向かって座り、スケッチブックに向かっていた。夕日が横から当たって、横顔が橙色に染まっていた。 描いているのは、窓の外の山だった。
湊はそれを、廊下から見ていた。
見てはいけない、という感覚はなかった。立ち去るべき、という判断もできなかった。 ただ、動けなかった。
ルカが顔を上げた。
目が合った。
ルカは驚いた様子もなく、少し首を傾けた。
「見てたの?」
「……通りかかりました」
「入れば」
湊は一秒迷って、扉を開けた。
美術室は絵の具の匂いがした。
湊には不慣れな匂いだった。 でも不快ではなかった。 ルカの隣に椅子を引いて、スケッチブックを覗いた。
今日の山は、昨日より暗かった。夕方の光の入り方を、影で描いていた。
「うまいですね」
「そう? でも正確じゃないんだよね」ルカは鉛筆を動かしながら言った。「写真みたいには描けない」
「でも、写真では出ない何かがある」
湊は自分でそう言って、少し驚いた。先日、自分が思ったことを、言葉にしていた。
ルカの手が止まった。
「それ、ちゃんと見てくれてるんだね」
何も言えなかった。
窓の外で、山が夕暮れの中に沈んでいった。二人はしばらく、黙っていた。
湊はその沈黙が、苦ではなかった。
それもまた、初めてのことだった。
帰り道、湊は端末を開いた。
明日の推奨スケジュールを確認する、いつもの習慣だった。 画面を見ながら、歩きながら、 湊は気づいた。
明日、ルカと話せるだろうか。
その考えが、頭の中にあった。
話す目的はない。情報交換でも、共同作業でもない。ただ——話したい。
湊は立ち止まった。
夜の山道で、一人で立ち止まった。
端末の画面に、明日のスケジュールが並んでいた。何時に起きて、 何を食べて、何を学んで、どこへ向かうか。すべてが決まっていた。
その中に、ルカはいなかった。
どこにも、いなかった。
湊はそのまま、しばらく動けなかった。




