第2話 ルカという異常値
翌朝、湊の端末に通知が届いた。
件名は「学習効率低下アラート」。
昨日の数学小テスト、解答速度が規定値を〇・八秒下回った。誤答はない。スコアへの影響は軽微。 だが端末はそれを見逃さなかった。原因の分析と、改善プログラムの提案が、箇条書きで三点、丁寧に並んでいた。
湊はそれを読んで、端末を閉じた。
原因なら、わかっていた。
ただ、それを端末に入力する気にはなれなかった。
雨宮ルカは、二日目も端末を開かなかった。
全員が朝のプログラム確認をしている時間、彼女だけがノートに何かを描いていた。 授業の内容ではない。 湊の席からは角度が悪くて見えなかったが、ペンの動きが、計算とは違う軌跡を描いていた。
藤堂が気づいて近づいた。
「雨宮。端末を開きなさい」
「あ、はい」
ルカは素直に端末を開いた。でも画面を見ていなかった。
藤堂はそれ以上何も言わなかった。 言っても意味がないと判断したのか、あるいは対応プログラムの範囲外だったのか。教師もまた、システムの中にいる。
湊は前を向いたまま、そのやりとりの一部始終を聞いていた。
三時間目の休み時間、湊は廊下に出た。
水を飲む。それだけの目的だった。
角を曲がったところで、ルカが窓枠に背をもたせかけて立っていた。スマートフォンではなく、ノートを持っている。さっき授業中に描いていたものだった。
湊は立ち止まった。
立ち止まる理由はなかった。 会釈をして通り過ぎれば済む話だ。それが推奨される行動だ。
「何描いてるんですか」
気づいたら、声が出ていた。
ルカが顔を上げた。驚いた様子はなかった。 ただ少し間を置いて、ノートをこちらに向けた。
山だった。
窓から見える、鬼無村の山々。 稜線の細かい起伏まで、鉛筆で丁寧に描かれていた。写真のような正確さではない。でも何か、写真には写らないものが、そこにあった。
「山が好きなんですか」
「好きかどうかわかんない」 ルカは答えた。 「でも描きたくなる。 なんか、ここの山って重たい感じがして」
「重たい」
「うん。長い時間が積み重なってる感じ。この村、古いでしょ。そういうのが山に出てる気がして」
湊には、その感覚がわからなかった。
山は山だ。地形データがあり、 標高があり、気象条件がある。 重たいという形容は、客観的な指標を持たない。
でも。
「……そうかもしれません」
なぜかそう、言っていた。
昼休み、ルカはまた屋上に来た。
湊が先にいたのに、躊躇なく隣に座った。昨日と同じコンビニのサンドイッチを、また同じように開いた。
「ねえ、聞いていい」
「何を」
「神崎くんって、将来何になるの」
湊は即座に答えた。「国家機関への就職が内定しています。行政データの分析と最適化支援が主な業務になります」
「楽しそう?」
また、その質問だった。
昨日と同じ問い。湊は今度こそ答えようと準備していたはずだった。でも、やはり言葉が出るまでに、少し間があった。
「……社会に貢献できる仕事です」
「それは楽しいの答えじゃないよ」
ルカはあっさり言った。 責めているのではなく、ただ指摘しているだけの、フラットな声だった。
湊は黙った。
「私はね」とルカは続けた。 「絵を描きたいんだ。食えないって言われるけど」
「食えない、とは——経済的に不安定ということですか」
「そう。適性スコアも低いし、推奨職種には一個も入ってない。でも描きたいから描く」
「非効率です」
「うん、知ってる」
ルカは笑った。今度は声が出た。小さいが、確かな笑い声だった。
湊はその笑い声を聞いて、何かが胸の中で動いた気がした。
動いた、という表現が正確かどうかも、わからなかった。ただ、何かが、いつもと違った。
「神崎くんはさ」ルカが言った。「怖くないの?」
「何が」
「全部決まってること。行く会社も、たぶん結婚する相手も、住む場所も。最初から答えが出てる人生」
湊は山の方を見た。
鬼無村の山は、今日も同じ場所にあった。昨日も、十年前も、百年前も、同じ場所にあったはずだ。それは安定だ。正しいことだ。
「怖いと感じたことは、ありません」
「そっか」
ルカはそれ以上聞かなかった。
湊はその日の夜、なかなか眠れなかった。 端末は「軽度の睡眠効率低下」を記録した。 原因欄には、「不明」と表示されていた。
システムも、答えを持っていなかった。




