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第1話 エラーの予兆

 《人生最適化教育》は現在、全国二千四百校に導入されている。

 失業率、犯罪率、自殺率——あらゆる「失敗の数値」が、導入後の十年で劇的に下がった。      政府はこれを「静かな革命」と呼んだ。              その原型となったのは、長野県の 山間部に今も残る、小さな村の古い言い伝えだった。

 鬼無村。人口八百三十二人。

 先人たちの経験を「失敗の記録」として守り継ぎ、同じ過ちを繰り返さないことを村の掟とした場所。 国はその構造をAIで再現し、全国に広げた。

何故なら、人々は先人の経験を聞いても実行せず、同じ過ちを何百年も繰り返してきたから。

 だが、発祥の地に住む者たちは知らなかった。

 自分たちが、最初に壊れることを。

 朝六時十五分。

 神崎湊は目を覚ます前から、すでに起きていた。

 枕元のデバイスが静かに振動する。アラームではない。     推奨通知だ。睡眠スコア、体温、  心拍——昨夜から計測し続けたデータが、今朝の最適な起床時刻を弾き出した結果が、六時十五分だった。

「おはようございます、神崎湊さん。本日の体調スコアは九十一点です」

 湊はデバイスを一瞥し、ベッドを出た。

 迷いはない。洗顔、ストレッチ、朝食。すべてに順序があり、その順序に従うことが、十八年間の正解だった。             窓の外では、谷間にまだ朝靄が残っている。山の輪郭だけが、薄く白い空に浮かんでいた。

 鬼無村の朝は遅い。

 光が届くまで、もう少しかかる。

 高校の廊下は静かだった。

 生徒たちは適切な速度で歩き、 無駄な立ち話をしない。笑い声が上がることもあるが、長続きしない。ホームルーム前の十分間、各自が 端末を開いて今日の推奨プログラムを確認する——それが、ここでは当たり前の朝だった。

 湊は窓際の自席に着き、端末を開いた。

 進路適性スコア、A+。

 感情制御能力、S判定継続中。

 推奨就職先、国家機関第三候補まで内定確認済み。

 完璧だった。十八年間、ずっとそうだった。

 担任の藤堂が教室に入ってきた。五十代の、感情の少ない男だ。

「本日、転入生を紹介する」

 湊は顔を上げた。

 転入生。           その言葉が、一瞬だけ引っかかった。この村に、外から来る人間がいるとは思っていなかったからだ。

 扉が開いた。

 最初に目に入ったのは、制服の袖の染みだった。

 青と黄が混ざった絵の具のシミ。洗っても落ちないのか、それとも落とす気がないのか。       湊には判断できなかった。

「雨宮ルカです。よろしく」

 短い自己紹介だった。

 礼儀の範囲内だが、推奨フォーマットから外れている。      名前と一言、それだけ。何人かが顔を見合わせた。

 湊は観察した。茶色がかった髪、少し乱れた前髪、整っていない姿勢。何より、表情が読めなかった。感情を制御できていないのではなく——感情を隠す気がない。そういう顔だった。

 十八年間で、初めて見るタイプだった。

 空席は、湊の隣だった。

 数学の授業中、湊は三度、視線を横にやった。

 一度目は、ルカがノートを取っていないことに気づいたとき。

 二度目は、彼女が窓の外をじっと見ていることに気づいたとき。

 三度目は——理由がわからなかった。

 ただ、見ていた。

 授業の内容は頭に入っていた。 視線が横を向いても、耳は板書の説明を拾い続ける。スコアへの影響はない。             問題はない。

でも。

 何かが微かに引っかかっていた。

 服についた埃のような感覚。  気になる。           でもどこにあるかわからない。   払っても払えない。

 湊はその感覚に名前をつけようとして、できなかった。

 端末の感情ログには「平常」と記録されていた。

 昼休み、湊はいつもの場所で昼食をとった。

 屋上の端。風は強いが、眺めがいい。              谷間の家々、棚田、遠くの山稜——整然とした、正しい景色だった。

 足音が聞こえた。

「ここ、座っていい?」

 ルカだった。

 断る理由はない。湊は短く言った。「どうぞ」

 彼女は隣に腰を下ろし、コンビニのサンドイッチを取り出した。  栄養管理されていない食事だ。  湊の端末なら警告が出る。

「ねえ」とルカは言った。    「この村って、なんか変じゃない?」

「変、とは」

「みんな静かすぎる。笑い声がない。廊下ですれ違っても、目が合っても——なんかこう、いないみたいな感じがする」

「効率的な環境です」湊は答えた。「感情的な摩擦が少ない分、生活の質が高い。犯罪もない、事故もない。ここはそういう村です」

「それって」ルカはサンドイッチを一口かじった。         「楽しいの?」

 湊は答えようとした。

 答えは決まっているはずだった。「充実しています」か「問題ありません」か。どちらも正確で、どちらも正しい。

 でも言葉が、出なかった。

 〇・三秒の沈黙。

 湊にとって、それは異常だった。

「……楽しいとは、何を基準にしますか」

 ルカはそれを聞いて、少し笑った。声に出さない、口の端だけの笑いだった。

「基準とか、ないんじゃないかな」

 彼女はもう一口かじって、山の方を見た。それ以上、何も言わなかった。

 湊はその日の午後、数学の小テストで初めて一問、解答が遅れた。

 端末の感情ログは、引き続き「平常」を示していた。


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