終話 それが人間だった
子供は、その人と別れた。
自分で決めたことだった。 一ヶ月ほど迷って、ある朝、静かに告げた。「やっぱり、推奨通りにする」と。
湊は何も言わなかった。
正しい、とも。間違いだ、とも。
ただ、その朝の子供の顔を、湊はずっと覚えていた。
時間は、正確に流れた。
子供は推奨された会社に入り、 推奨された相手と結婚し、子供を持った。孫だった。 湊は初めて孫を抱いたとき、軽さに驚いた。こんなに軽いのか、と思った。それだけだった。
妻は穏やかなまま、年を取った。
湊も年を取った。
髪が白くなった。スコアの項目が、少しずつ変わった。学習効率の代わりに、健康指数と転倒リスクが並ぶようになった。 端末は変わらず、毎朝、最適な起床時刻を教えてくれた。
人生は、正確だった。
正確に、続いた。
七十二歳の冬、湊は押し入れを整理した。
妻が「そろそろ」と言ったからだった。不要なものを減らす。 それも推奨されていた。
段ボールを一つずつ開けた。
古い書類、使わなくなった端末、子供の写真。順番に確認して、処分するものと残すものに分けた。
一番奥の箱に、スケッチブックがあった。
湊は手が止まった。
取り出した。
表紙は日焼けしていた。小さな傷が、そのままあった。
湊は縁側に出て、座った。
冬の午後の光が、庭に差し込んでいた。
スケッチブックをゆっくり開いた。
川岸の石垣。朝靄の山。重たい、長い時間が積み重なった山。 廊下で窓の外を見ている、後ろ姿の自分。屋上で弁当を食べている、横顔の自分。
湊は、こんな顔をしていたのか、と思った。
五十年以上前のことなのに、覚えていた。
全部、覚えていた。
最後のページを開いた。
川の絵があった。波紋があった。
文字は、かなり薄くなっていた。でも読めた。
「エラーで、よかった」
湊は、その文字を見た。
長く、見た。
庭の木が、風に揺れた。
湊は顔を上げて、遠くを見た。
山が見えた。冬の山は、木が葉を落として、骨のような稜線をしていた。重たかった。長い時間が積み重なった、重たい山だった。
湊は初めて、それを、感じた。
見ていた、これまで何十年も。 でも今日初めて、感じた。
ルカが言っていた通りだった。
夜、湊は子供に電話をした。
用事はなかった。ただかけた。
「どうしたの、急に」
「何でもない。元気かと思って」
少し沈黙があった。
「元気だよ」子供は言った。 「父さんは?」
「元気だ」
また少し黙った。
「孫は?」
「うん。最近ね」子供が笑った。「好きな子ができたって言い出した。同じクラスの。スコアとか関係なく、ただ好きだって」
湊は、動かなかった。
「そっか」
「うん。なんか、俺のときと同じだなって」
子供は軽い口調で言った。 昔のことを、もう少し遠くから見られるようになった人の声だった。
「父さん、あのとき何も言わなかったじゃない。どうすればいい、って聞いたのに」
「言えなかった」
「今なら言える?」
湊は少し考えた。
「わからない、は変わらない。 でも」
「でも?」
「理由のわからないことの方が、 長く残る」
子供は黙っていた。
それから「そっか」と言った。
それだけだった。
電話を切って、湊は縁側に戻った。
スケッチブックは、まだそこにあった。
湊はそれを持って、立ち上がった。
処分する箱には、入れなかった。
部屋の棚に、置いた。見えるところに、置いた。
その夜、湊は眠れなかった。
天井を見ながら思った。
孫が、誰かを好きになった。
自分がそうだった。子供がそうだった。孫もそうだった。
システムは何十年も改良され続けた。データは増え、AIは賢くなり、最適化の精度は上がり続けた。 それでも、誰かを好きになることだけは、数値にならなかった。推奨されなかった。防げなかった。
人類は、何百年経っても、同じことを繰り返している。
湊はそれを思って、不思議と、怖くなかった。
怖くなかった。
むしろ——。
翌朝、六時十五分。
端末が静かに振動した。
湊は目を開けた。
窓の外で、冬の山が夜明けの光の中に浮かんでいた。重たい山だった。長い時間が積み重なった、嘘のない山だった。
湊は起き上がる前に、少しだけ、その山を見た。
人間は失敗を繰り返す。
同じところで、躓く。同じものに、惹かれる。同じように、説明できない感情に、足を止める。
システムはそれを「エラー」と呼んだ。
でも。
もしかすると。
それが、人間だったのかもしれない。
湊は立ち上がった。
山は、そこにあった。




