#1 死の先。冒涜の歩み1
誰もが一度は死にたいと思ったことがあるだろうと思う。学校で嫌な事があったとか、人間関係が上手くいかないとか、仕事で疲れすぎたとか。
未だに、上司の怒声が耳に残る。
息苦しい社会から解放されようと、私は、オフィスビルの屋上に立っている。
コンクリートの感触。ストッキングの生地を引き裂く粗い凹凸が、体重の儘に皮膚に突き刺さる。子供の頃は痛くてなるべく触らないようにしていた。
どうだっていい話。全部どうだってよくなった。
今の会社に来てから読む暇が無くなった少女漫画も、もうどうでもいい。いやでも、とりあえず完結してるかだけ気になる。完結してるなら、最後がどうなったのかだけ聞きたい。
いや、わざわざそれだけするために生き延びるのも気が向かないか。
目を開く。なるべくゆっくりと。
「空が近いな」
気のせいだろう。たかだか50メートル余り。手を伸ばしても何も掴めない、目指せない。鬱憤の掃き溜めを踏み台にしたところで、ドブ底から首を出せたくらい。
それでも、息一つですら死に物狂いだったのに。
酸素が肺に染み渡る。透き通った大気は、いやに美しく感じる。
幼い頃に見ていたアニメのオープニング。ディスクが焼き切れないか不安になるくらいリピートして、そらで歌えるようになった曲。ただ好きだったあの曲。
昨日、十年ぶり、久しぶりに聴いた。
『私は生きている。蒼い翼を持っているんだ。あの頃より背が伸びて、あの頃よりきれいになって。でも変わってない。あの頃からの夢。どろんこかもしれない記憶時計。君も、あの頃よりも、ずっと背が高くなったね。その心はどうなのかな』
アニメの主人公と、自分の姿が重なったわけじゃない。小学校の卒業式の後に、藤の木の下にタイムカプセルを埋めてただけ。一緒に開けようって指切りした友達がいただけ。
両親の元から巣立つ時に、「大きくなったね」と言われただけ。
ずっと忘れていた歌詞が、ひどく心に突き刺さった。思い出が、私に死にたくないと思わせる。
「しにたくないなぁ⋯⋯」
嗚咽混じりの声だと、自分でもわかる。昔から、追い詰められたら泣きべそかいて、言いたいことも言えなくなってたくせに。
どうしてか、その言葉が口から溢れ出した。
だからどうした。心の中で囁く。
後戻りするつもりはさらさら無い。もしかすればもっといい選択肢があったのかもしれない。でも、もう限界なんだ。
これは解放。そうやって自分に言い聞かせる。
ごめんなさい。お母さん、お父さん。許してなんて言えないけど、私にはこの世界は厳しすぎたんだ。きっと地獄に行くから、もう永遠に会えないと思う。
一呼吸置いて、ビル街の谷底を覗く。自動車のエンジン、人々の足音。その一つ一つが雑多に聞こえる。
足がすくむほどの高さ。どうせならパワハラしてきた上司や、いちいちセクハラで絡んできていた先輩を突き落としたいくらいお誂え向きだ。
あと一歩どころか、力を抜きさえすれば真っ逆さま。誰も今から起きる惨劇に気付けない。
死にたくないな。
「⋯⋯生まれ変わるなら鳥がいいな」
それが、遺言。
風の音が鼓膜を殴る。それなのに、不思議と静かだ。
落ちる。
窓から覗く名前も知らない同僚の顔が、鮮明に記憶に刻まれる。
墜ちる。
郭公の弟妹のように。
堕ちる。
業火の底に。
宇宙空間をも彷彿とさせる浮遊感は永く、三十年も無い、短い人生を一度に振り返るには十分であった。
唯一の安楽のさなか、視界の端に、黒い影が映り込む。それはこちらに気付いたように上を向いた。
視線が合う。
子供だ。まだ年端も行かない、小さい子供。透き通るような長い漆黒の髪を靡かせ、青鈍色の瞳を、こちらへと向けている。
まずい。正直なところ、私が自殺して、それで誰かに迷惑が掛かろうと、気にするつもりは無かった。気にする余裕も無かった。
しかし、未来豊かな少女を巻き込むのは話が違うというか、想定していなかった事態だ。
丁寧なほどスローモーションな世界とは反対に、体はそう自由に動かない。落下の軌道を逸らすことはできず、重力の儘に、佇む少女へと、一切のズレ無く激突する。
ばきっ。ぐしゃっ、ぶちっ。
およそ人体から発せられるべきではない音が、辺りに響く。一拍遅れて、誰かが悲鳴を上げた。連鎖するように、誰かが叫ぶ。
「誰か通報しろォ!!」
それを合図に、誰もが我先にとその場から離れるために、足を速める。癇に障る悲鳴はじきに絶え、独り言や駄弁がざわめき始める。
煩わしい声に、音に、視線に、感情に、嫌気が差してしまいそうだ。他人事だと早々に去る者。SNSに発信する者。悲惨な光景に気分を害する者ばかり。
自己中心的。そう一括りにして心の中で罵る。
気掛かりが一つ、激突した少女のことだった。しかし、それもすぐに塗り潰される。
全身の骨が折れて、肉と皮を引き裂く感覚。地獄のような痛みが延々と続く。
痛い。痛い。痛い、痛い痛い!!
声一つ上げられない。指一本動かせない。意識だけがはっきりとしている。もはや、なぜ痛いのか、何が痛いのかすら、曖昧になる。
熱い血が地面に赤い海を広げる。
実際の時間がどれほど経ったのかはわからない。何十時間が経過したような気分だが、もしかしたら数分かもしれない。
少なくとも、私にとって永遠とも言える時間の後、水色のシャツに、黒いベストを着た男性。つまり警察官がやってきた。
警察官は私の様子を見るや否や、遅れてきた別の警察官に指示を飛ばす。
「まだ⋯⋯ている! ⋯⋯に病院⋯⋯。⋯⋯げ!!」
嫌だ。病院になんて行きたくない。もし死ななかったらどうするんだ。嫌だ。嫌だ いやだ。いやだ いやだ いやだ! なんでみんなじゃまするんだ!
その憤りに呼応するように、縹色の炎が脈動する。
優しい優しい、母の腕の中のように、父の膝の上のように、暖かい炎が、我が身を包み込む。
「⋯⋯っ! B区大通り沿いのシチホシ正面で幽喪現象を確認! 応援を要請します!!」
炎はより濃く、より分厚く体を覆うと、その揺らめき一つ一つが羽根へと変貌してゆく。海のように広がった血溜まりは瞬く間に燃え尽き、痛々しく変形した肉体を、炎が正しい形へと修正する。
「こんのっ⋯⋯!」
破裂するような音が轟く。発砲音。そう気付いたのは、私の翼に弾丸が直撃したからだ。
私はその激痛に呻き声を漏らす。
「あぁ゙゙あ゙⋯⋯」
傷付いた翼は炎を滾らせ、埋め込まれた鉛玉ごと浄化する。私は完全に輪郭を持った翼で、警察官を押し退けた。
「このッ⋯⋯! 下っ端にも“火かき棒”くらい配ってくれたら⋯⋯!」
鮮やかに青い翼を大きく広げて、青い空を仰ぐ。
あぁ、なんて清々しい気分。私を縛っていた、あらゆるしがらみが焼き切れた開放感。今なら重力すら克服できそうだ。
広がった翼を掲げ、一気に振り下ろす。体がふわりと浮かび上がり、イカロスが成し得なかった偉業が、今、目の前にまで近付いている。
空が近い。手を伸ばせば太陽をも掴めるのではないか。昂る精神が、超越せよと叫んで止まない。
嗚呼、今! これまでの全てが、報われようとしている!
火の粉を撒く羽ばたきが、より力強く、より大きくなる。
「⋯⋯はっ?」
興奮が最高潮に達しようとした刹那、大空を覆い隠そうなほどに広げられた翼を、一本の矢が穿つ。淡い金色の炎を宿した、鋼の矢が。
射抜かれた翼は力無くその勢いを散らす。図に乗るなと言わんばかりに重力が、アスファルトの地面に体を打ち付けた。
なぜ二度も落下しなければならない。再び歪んだ肉体を、縹の炎が包み込んで癒やし始めた。原形を取り戻した腕を突き立て、私を撃ち落とした者を睨む。
ふざけるなよ。
「んだてめぇ。死に忘れが生意気な眼ェしやがってよ」




