翌朝
翌朝。
土井利勝が恐る恐る様子を見に来ると、秀忠はいつもの場所に座って、湯飲みを両手で包んでいた。
猫が膝に乗っていた。秀忠は猫を撫でていた。いつもと同じ動作で、いつもと同じ顔で。
土井は入り口に立ったまま、何も言えなかった。何を言えばよいかわからなかった。
「……昨日の書類、持ってきていい?」
「は、はい」
「うん。持ってきて」
それだけだった。
土井は書類を取りに行きながら、廊下で少しだけ立ち止まった。
何かが胸につかえていた。悲しいのとは違った。ただ、何かが、つかえていた。うまく言えないまま、書類を取りに行った。
書類を抱えて戻ると、秀忠はまだ猫を撫でていた。土井が書類を前に置くと、秀忠はちらりと見て言った。
「……土井」
「は」
「お父さんが死んだから、これから全部、僕のせいになるわけですよね」
土井は何も言えなかった。
「うまくいったら僕のおかげ、まずくなったら僕のせい。……めんどくさいなあ」
「……」
「まあ、しょうがないか」
秀忠は猫の耳の後ろを掻きながら、書類の一番上を手に取った。
土井利勝は、この瞬間の秀忠の顔を、生涯忘れなかった。
泣いていなかった。怒っていなかった。ただ「しょうがないか」という顔だった。それが何よりも、土井の胸につかえた。
「しょうがないか」が、この男の悲しみの全部だった。
土井はその日、廊下を何度か歩いた。書類を運ぶたびに、廊下を歩いた。いつもと同じ廊下だった。
何かが違う気がしたが、何が違うのかは、うまく言えなかった。
夕方、土井は本多正信と廊下でぶつかりそうになった。
「正信殿」
「土井殿」
二人は少しの間、立っていた。
「……今日の殿は」と土井が言いかけた。
「見ました」と正信が言った。
「……」
「『昨日の書類、持ってきていい?』という話は、竹松から聞きました」
「はい」
「『しょうがないか』という話も」
「はい」
正信はしばらく黙った。
「……わかりかねる」
「はい」
それだけで、二人はそれぞれの廊下を歩き始めた。
今日の「わかりかねる」は、いつもとどこか違う気がした、と土井は思った。何が違うのかは、やはりうまく言えなかった。
夜、竹松が手帳を閉じながら、廊下でひさとすれ違った。
「竹松殿、今日は」
「……記録が、うまく書けませんでした」
「何を書こうとしたんですか」
「殿が、『しょうがないか』とおっしゃった件を」
ひさは少し間を置いた。
「……書けませんでしたか」
「書き始めると、何かが足りない気がして。足りないのが何かもわからなくて」
「そうですか」
「ひさ殿は……今日のことを、どう思われましたか」
ひさはしばらく考えた。
「わかりません」
「やはりそうですか」
「でも」
「でも?」
「奥方様が今日、一度だけ縁側を見ておられました。殿がいる方の縁側を。それだけです」
竹松は何も言えなかった。
何も言えないまま、手帳を持ったまま、廊下を歩き続けた。
手帳の今日のページは、最後まで、うまく埋まらなかった。




