豊臣方の使者が来た日
── 「要するに早く終わらせたいってことですよね」が、交渉の主導権を握った件 ──
冬の陣が始まって、しばらく経った頃だった。
家康が体調を崩して臥せった。
報せを受けた土井利勝が廊下を早足で歩いていると、本多正信と鉢合わせた。
「正信殿、大御所様が……」
「聞きました」
「では秀忠様への報告を……」
「もう済ませました」
土井は少し止まった。「それで、秀忠様は」
「やだ、とおっしゃいました」
「……やだ」
「はい。豊臣方の使者との対面が急遽秀忠様に回ることになりましたので、その旨を申し上げましたところ」
「やだ、と」
「はい。続けて『なんで僕が』ともおっしゃいました」
土井は少し考えた。
「……なんと」
「やだとは言えませんので、よろしくお願いします、と申し上げました」
「それで」
「『なんで僕が頼まれてるんですか』と問い返されました」
「……それで」
「三秒、黙りました」
土井は正信を見た。正信は静かな顔をしていた。三秒の沈黙で何かが解決したとは思えなかった。
「……最終的には」
「まだです」
「まだ」
「今から、もう一度参ります」
土井は「では一緒に」と言いかけて、止めた。二人がかりで行けば、秀忠はより頑なになる可能性があった。経験上、そういう場合は一人の方が早かった。
「……正信殿に任せます」
「ありがとうございます」
正信は廊下を曲がっていった。土井はその背中を見送った。
使者は既に到着していた。待たせている。時間がない。
土井は天井を一度見上げてから、別の廊下を歩き始めた。
本多正信が秀忠の部屋に入ると、秀忠は座布団の上で膝を抱えていた。
「秀忠様」
「やだ」
「まだ何も言っておりませんが」
「どうせ使者のことでしょう」
「左様でございますが」
「やだ」
正信は少し間を置いた。
「なぜ、やだと思われますか」
「難しそうだから」
「難しくはございません」
「どうして難しくないと言えるんですか」と秀忠は言った。膝を抱えたまま。「あっちはこっちをどうにかしようとして、こっちはあっちをどうにかしようとして、どっちもそれをわかってて話をするんでしょう。それは難しいじゃないですか」
正信は少し考えた。
「……難しい、と言えば難しい」
「じゃあやだ」
「しかし秀忠様のお力で、難しくなくなる場合もございます」
「なんで僕が難しいことを簡単にしなきゃいけないんですか」
正信は答えなかった。
正確には、答えを探したが見つからなかった。
しばらくの沈黙があった。
「……帰りたいですよね、お互い」
秀忠がぽつりと言った。膝に顎を乗せたまま。
「は?」
「こっちも帰りたいし、あっちも長引かせたいわけじゃないでしょう。そういうことじゃないんですか」
正信は少し止まった。
「……そう、ございます」
「じゃあその話をすればいいじゃないですか」
「左様で……」
「それは難しくない」
秀忠は膝から顎を離した。
「僕、行きます」
正信は「それが狙いだったのか」と思いかけて、止めた。狙ったわけではない可能性の方が高かった。なぜ高いかは、うまく言えなかった。ただ、そう感じた。
「……よろしくお願い申し上げます」
「ただし、短くしてください」
「できる限り」
「絶対に短くしてください」
「……善処いたします」
使者の対面の間に、秀忠が入ってきたのはそれから半刻後だった。
豊臣方の使者は、深く礼をとった。
秀忠は座った。
使者が顔を上げた。将軍と目が合った。将軍は、特に何も考えていない顔をしていた。考えていないのか、考えを見せないのか、使者には判断できなかった。
使者は口上を述べ始めた。
冬の陣に際して、豊臣家としての立場を説明した。戦を望まないこと、和平の可能性について話し合いたいこと、条件については双方の納得のいく形で、丁重に、しかし長々と、言葉を重ねた。
秀忠は聞いていた。
聞いているのか聞いていないのか判断できない顔で、ただ聞いていた。目は使者を向いていた。しかし何を考えているのかは、まったくわからなかった。
使者は最後まで述べ終えた。
一息ついた。
秀忠はしばらく黙っていた。
黙って、少し考えた。
それから、ぽつりと言った。
「要するに、早く終わらせたいってことですよね、お互い」
使者は絶句した。
「僕も早く帰りたいし、そちらも長引かせたいわけじゃないでしょう」
「……」
「じゃあ早く終わりにしましょう。条件は追って。以上」
使者は何も言えなかった。
長々と述べた口上の、すべてが、この一言に集約されていた。集約された上で、「以上」と言われた。
返す言葉が、なかった。
使者が退出した後、正信が静かに近づいた。
「秀忠様、今の一言で相手の腹の内を全部引き出しました。交渉の主導権を完全に握りましたぞ」
「そういうことじゃなくて本当に早く帰りたいだけなんですが」
正信は少しの間、秀忠の顔を見ていた。
見ていた。
見続けた。
「……おそろしいお方だ」
「なんで毎回それを言うんですか」
正信は答えなかった。
答えの持ち合わせが、ついに尽きていた。手帳には残っている。これまでの「おそろしいお方」の記録が十四件ある。しかし十五件目を書くための言葉が、今日は出てこなかった。
事実だけ書けばいい。今日は、それだけにしよう。
正信はそう決めた。
その夜、手帳を開いた正信が書いたのは一行だった。
「冬の陣、使者との対面。秀忠様一言:要するに早く終わらせたいですよね。以上。主導権を掌握した。本人は帰りたかっただけ。」
書いてから、読み返した。
もう一行書いた。
「帰りたかっただけ、という動機と、交渉の主導権掌握、という結果の間にある距離について、私はまだ説明できていない。これが十五冊目の手帳の課題とする。」
正信は手帳を閉じた。
「十五冊目」と、小声で言った。
手帳はまだ五冊目だった。先が長い、と正信は思った。長いというより、終わらない、という方が正確かもしれなかった。
「わかりかねる」
正信はいつもの言葉を言った。
今日のそれは、いつもより少し深いところから出てきた気がした。気がしただけで、確認する方法はなかった。
翌朝、土井利勝は廊下で岡崎主水正に呼び止められた。
「土井殿。昨日の使者との対面ですが」
「はい」
「秀忠様が『要するに早く終わらせたいですよね』とおっしゃったと聞きました」
「はい」
「それで、主導権を握ったと」
「そのようで」
岡崎は少し間を置いた。
「……私は昨日、使者対面に備えて、交渉の論点を十七項目に整理した覚書を作っておりました」
土井は「そうでしたか」と言いかけて、少し止まった。
「……十七項目」
「はい。豊臣家の立場から想定される主張、こちらの対抗論点、交渉の優先順位……」
「それは」
「昨夜、燃やしました」
土井は「なぜ」と聞こうとして、やめた。なんとなく、わかった気がした。わかった気がした理由は、うまく言えなかった。
「……岡崎殿」
「はい」
「燃やしたのは、正しい判断だったと思います」
岡崎は少し間を置いた。
「……そうでしょうか」
「十七項目が、一言になった。あの一言は、十七項目の全部を含んでいました」
「……それは、結果論では」
「そうかもしれません」
岡崎は廊下の先を見た。廊下の端に、朝の光が差し込んでいた。
「なぜか」と岡崎は言った。
「はい」
「なぜ、一言で十七項目になるのか」
「……わかりかねます」
岡崎は一度頷いて、廊下を歩き始めた。四歩目で、段差でもないところにつまずいた。
振り返っても、何もなかった。
◇後世の歴史家注◇
「要するに、早く終わらせたいってことですよね」という一言については、「秀忠は交渉において本質のみを抽出し、相手の立場を明快に言語化することで心理的優位を確立した」とする研究が定説化している。「早く帰りたかっただけ」とする一次資料は、「本人の謙遜」として解釈されることが多い。なお岡崎主水正が十七項目の覚書を燃やした件については、記録が残っていないため確認できない。燃やした、とする口伝が一件あるのみで、研究者の間では「比喩的な表現である可能性が高い」とされている。比喩でないとすれば、十七項目の内容を永遠に知ることができないことになるが、それを惜しむ研究者は今のところいない。




