初めての剣術大会
――作者より一言――
歴史というのは奇妙なもので、後世の人間が「偉大な必然」と呼ぶ出来事の大半は、現場では「えーやだ」「めんどくさい」「誰かやって」の三語によって彩られていたりする。
そしてこれが最も困るのは、後から辻褄を合わせなければならない歴史家たちである。本章はその歴史家たちの、見えない残業時間を増やす男の話である。
なお同じくらい困っているのが、現場でその男を観察し続けている家臣たちなのだが、そちらについては歴史書に記録が残りにくい。
その日、江戸城の道場は朝から活気に満ちていた。
天下人・徳川家康が「わが息子の成長を見せよ!」と号令をかけ、諸大名を招いて盛大な剣術大会が催されることとなった。招待状を受け取った諸大名は、揃って参集した。誰も断れるわけがない。天下人の「見せよ!」である。
道場には絹の飾り幕が張られ、諸大名は袴の皺を正して居並び、周囲の見物衆の期待も高まる一方だった。控えの間では大会の進行役が段取りを確かめ、道場の板張りには朝から磨きがかけられていた。何事もなく、何もかもが整っていた。
岡崎主水正忠則も、その日は朝の五つ前から起きて素振りを百回終え、着替えを整え、会場に颯爽と着いていた。道場の空気を胸いっぱいに吸い込んで、髭を一本一本丁寧に整えた。今日こそは若様の雄姿を拝める、そう思いながら、所定の場所で正座した。正座は完璧だった。
本多正信は少し離れた場所に立って、静かに道場の梁を見上げていた。
ただひとつを除いて。
主役がいなかった。
「若様はどちらへ……」
小姓の一人が道場の裏手を覗いたとき、そこに秀忠はいた。
土間に寝転んで、団子を食べていた。
背中に秋の日が当たって、ひどく気持ちよさそうだった。足元には猫が一匹、丸まっている。秀忠はその猫にも周囲の騒ぎにも一切関心を払わず、ただゆっくりと団子を口に運んでいた。顔には団子の串を手に持ったまま、うとうとしかけている様子さえあった。
「若様!」
家臣が駆け寄った。「大会のお時間でございます。いよいよ若様のご出番で……」
秀忠は団子から目を離さずに、ひとつだけ言った。
「出たくない」
家臣は絶句した。しかし職責がある。何とかしなければならない。
「しかし、本日のために家康様が諸大名をお集めになり、道場には大変な人数が……」
「勝っても偉くなるだけだし」
「それは、若様の将来にとって、たいへんよろしい……」
「負けたら恥ずかしいし」
「では引き分けという手も……」
「どっちに転んでもいいことない」
沈黙が落ちた。
家臣はしばらく口を開け閉めしてから、同じく事態の収拾に来ていた他の家臣たちの顔を見た。互いに目が合った。誰かが論破してくれることを期待していたが、全員が同じ目をしていた。
「……確かに」という目だった。
完全論理武装である。反論の余地が、なかった。
剣術大会に出ることで得られる利益と被る損害を、秀忠はわずかな言葉で精密に整理していた。実際のところ、家臣たちが反論できないのはその通りだったからだ。勝てば次の期待が重くなる。負ければ顔が立たない。怪我をすれば余計に面倒が増える。そのどれにも喜ぶべき要素がなかった。
誰も口を開かなかった。秀忠は二本目の串に手を伸ばした。
「竹松」
と、秀忠が不意に呼んだ。一番若い小姓が「はっ」と飛び出した。
「あの、若様……」
「団子、もう一本持ってきて」
「……かしこまりました」
竹松は几帳面に一礼してから、台所の方へ走っていった。走りながら、なぜでございますか、と頭の中で問うていた。この状況で。今このときに。なぜ団子なのか。答えは当然、見当たらなかった。
人事を尽くした家臣たちは、最終的に「実力行使」という選択肢に辿り着いた。
もはや言葉は通じない。道理も通じない。引きずって連れていくしかない。
「若様、失礼いたします……」
その瞬間だった。
道場の方から、鈍い音がした。
次いで、轟音。
バキッ、と。
それから、どおんという重い崩落音が続いた。土埃が上がり、砂が舞い、道場の建具がばたばたと揺れた。
家臣たちは全員振り返った。道場の屋根から白い砂埃が上がっていた。
梁が、折れた。
天井が、崩落した。
「な、何事!」
大会参加者たちが悲鳴を上げた。諸大名が揃って道場から飛び出してきた。足袋のまま庭に転がり出る者、着物を埃まみれにしながら柱にしがみつく者、扇を落としたまま叫ぶ者。参加者数名が軽傷を負う大惨事となり、大会は中止となった。
家康が何事かと駆けつけたとき、道場の天井の半分は落ちていた。
秀忠は、その一部始終を知らなかった。
道場の裏で、のんびりと二本目の団子を食べていた。
遠くで何か音がした気がしたが、頭上を雀が鳴いて飛んでいったので、そちらの方が気になった。猫がその雀を追って立ち上がり、土間を駆けた。秀忠は残りの団子を口に入れて、串を地面に置いた。
「雀も捕まらないとわかってるだろうに」
秀忠はそう言って、空を見た。
澄んだ秋空だった。
混乱が落ち着いた頃、崩れた道場の前に人々が集まり始めた。散乱する木材を眺め、誰もが言葉を失っていた。
そのとき、我慢できずに口を開いた者がいた。
四十代、髭が立派、正座が完璧。三河武士の中の三河武士、岡崎主水正忠則である。
「あの……申し上げにくいのですが」
岡崎は正座を崩さぬまま、周囲を見渡してから続けた。「若様は、剣術大会にご出場すべきではなかったでしょうか。武士の子として、かくあるべし、成長を示す場をみすみす……」
声は抑えていたが、訴えるような熱がこもっていた。彼は幼少より武芸学問礼儀を積み重ねてきた男である。毎朝五つ前から素振り百回、論語の暗唱、書類の予習を欠かさない。将軍たるもの、かくあるべし、その信念が、体の奥から言葉を押し出させていた。髭が微かに震えていた。
本多正信が、静かに振り返った。
「岡崎殿」
「はい」
「天井が崩落しました」
岡崎はぴたりと止まった。「……はあ」
「若様は今、団子をお食べです」
「……はあ」
「何か問題がございますか」
岡崎主水正忠則は、崩れた天井を見た。それから道場の裏の方、団子を食べている秀忠の背中を見た。また天井を見た。
何も言えなかった。
言える言葉が、どこにも見当たらなかった。
翌日から、諸大名の間にじわじわと噂が広まった。
「秀忠様は出場を辞退されることで、参加者への危険を察知されたのでは……」
「あのご決断、ただごとではない」
「天井の一件……まさか前から……」
「さすがは天下人の御子……」
家康はその噂を耳にして、崩れた天井を見上げた。
何も言えなかった。言えるわけがなかった。なぜならこの段階では、家康にも「天才か馬鹿か」の判断がついていなかったからである。
岡崎主水正忠則は、自室で一人、素振りをした。百回。それから二百回。汗を拭いて、正座した。
「武士の子として、かくあるべし」
声に出して言ってみた。声は、しっかりと出た。
しかし道場の崩れた梁と、のんびり団子を食べていた若様の背中が、頭から離れなかった。
この判断は最後までつかない。
剣術大会が中止になった翌朝。
本多正信は一人、崩れた道場の前に立っていた。
大工を呼んでいた。折れた梁を確かめてもらった。
「……やはり、木が腐っておりました。このところの雨続きで。時機の問題でしたな、いずれ落ちる梁でございました」
大工は当然のことを当然のように言って、道具を片づけて帰っていった。
正信は崩れた天井の残骸を、しばらく眺めていた。
どう見ても、梁が古かっただけだった。木が腐っていた。雨続きの湿気で、時機の問題だった。
しかし正信の頭は、別の計算をしていた。
「……秀忠様が出場を断った。その直後に天井が崩落した」
これを偶然と言う者は、凡人だ。天才というのは、常人には見えない何かを見ている。だから常人には「偶然」に見える。
「……出場していれば、若様は落下物の直撃を受けた可能性がある」
正信は懐から手帳を取り出した。几帳面な字で、静かに書き留めた。
「第一の事例:大会辞退により落命を回避。動機は不明。結果は明白。」
書き終えて、正信はもう一度天井を見た。
このことは、誰にも言わないでおこうと思った。言ったところで、信じる者と信じない者に分かれるだろう。信じない者に言うのは時間の無駄だ。信じる者には言わなくていい。なぜなら、信じる者はいずれ自分で気づくからだ。
道場の奥から、竹松が小走りで来た。
「正信様、若様が、台所の裏でまだ団子をお食べとのことで、そろそろ片づけに来るよう台所の者が……」
正信は手帳から目を上げた。
「そのままにしておけ」
「……はあ」
「若様に、好きなだけ食べるようお伝えしろ」
竹松は一礼して、走っていった。走りながらまた、なぜでございますか、と心の中で問うた。答えは、やはり見当たらなかった。
正信は手帳を閉じた。
その三日後、稽古を怠けて縁側で昼寝をしていた秀忠の頭に、庭木の枯れ枝が落ちてきた。
秀忠は「痛い」と言って頭を抱えた。
正信はこれをどう解釈するか、二日間悩んだ末に「判断保留」と手帳に書いた。
天才の行動には、たまに例外がある。
◇後世の歴史家注◇
「秀忠の剣術大会辞退は、家臣団への権限委譲を早期から実践した慧眼の表れ」という解釈が有力視されている。天井の件については言及していない論文が多い。本多正信の手帳のこの一項は、「結果論的観察記録の嚆矢」として高く評価する研究者がいる一方、「ただの偶然の記録では」と首を傾げる者もいる。なお団子二本目についての記録は、どの一次史料にも残っていない。




