惹かれていく
それから何度か会ううちに、俺はイサムさんの部屋を訪ねるようになっていた。
イサムさんの部屋はひどく静かで、いつも紙とインクの匂いがした。
窓際の本棚には、外国語の本がぎっしりと並んでいた。
机の上には、万年筆と大きなマグカップ。
整頓された空間の中に、生活の気配を感じていた。
「誰かと、住んでたことがあるんですか?」
「昔の話だけどね」
イサムさんは淡く笑って、コーヒーを注いでいた。
「今は、君みたいに若い人と話すのが新鮮だよ」
「俺は、同年代の人より、イサムさんと話すほうが落ち着きます」
その言葉に、イサムさんは少しだけ目を伏せた。
何をするわけでもなく、ただ二人で同じ映画を見たりして。
俺たちは同じ時間を過ごしていた。
夜が深まり、カーテンの向こうに街の灯が揺れていた。
ラジオからは、静かなジャズが流れていた。
「……イサムさん」
「どうした?」
「俺、父親を知らないんです」
そう告げたとき、イサムさんの指が止まってしまう。
「……そう」
「だから、あなたみたいな人に惹かれるのかもしれない」
次の瞬間、部屋の空気が一気に変わる。
ゆっくりと立ち上がって、テーブルの上のグラスを片付けながらイサムさんは冷たく言い放つ。
「俺に、何を見ているのかな?」
落ち着いているものの、その口調はいつものものではなかった。
俺は、答えることができなかった。
でも、その代わりに一歩だけ近づいた。
かすかに荒れたその手が、静かに俺の頬へ伸ばされた。
指先の熱が、静かに伝わる。
ゆっくりと撫でられるその間、俺たちには言葉がなかった。
ただ、息の重なりと、誰かを求める音だけがあったんだ。
***
――あんなことを、言うんじゃなかった。
あの夜を境に、俺とイサムさんの関係は変わってしまう。
会うたびに言葉が少なくなって、沈黙が長くなっていく。
けれどその沈黙は、決して居心地が悪いようなものではなかったんだ。
むしろ、何も語らずとも通じ合えるような、そんな感覚でもあったんだ。
イサムさんの手がテーブルの上にあると、俺の視線は自然とそこへ吸い寄せられる。
長い指、静かな動き、無駄のない所作。
そのすべてに、言いようのない深みと優しさがあったんだ。
「俺に、何を求めているのかな?」
ある晩、イサムさんはそう言った。
静かな部屋で、雨音が遠くに聞こえていた。
「……わからない。ただ、イサムさんといると安心する」
「それは、父親を求めていることへの安心?」
「違うと、思います」
「じゃあ、……恋?」
その問いにかけに、胸が詰まる。
――恋。
その言葉の響きが、やけに現実的で怖かった。
「……たぶん、そうです……」
イサムさんは、長く深く息を吐いた。
「君は、まだ若い。俺は……」
その先を言わずに、目を伏せてしまう。
光の下で見えた睫毛が、かすかに震えていた。
その夜、俺たちは強く抱きしめ合った。
何をするわけでもなく、ただ静かに。
熱い抱擁を交わしていた。
「好きなんです……」
言葉を止めることが、できなかった。
イサムさんのその孤独が、その熱が、俺に伝わってきたせいで。
「イサムさんのことが、好きなんです」
それでも、イサムさんはただ困ったように眉を下げて笑うだけだった。




