探し求める
普通の家族というものが、どのような形をしているのか、俺にはさっぱりわからなかった。
母はいつも、仕事に追われていた。
朝は化粧をしながらパンをくわえて、夜は疲れた顔で帰ってきては、ワインのグラスを片手に俺を見た。
その目は、まるで俺の中に“あの人”の姿を探しているようでもあったんだ。
俺の、父親。
生まれる前に、事故で亡くなったその人。
写真は一枚もなくて、母の口からもその名前は滅多に出ることはなかった。
だから俺にとって父親は、初めからいない存在だった。
「お父さんに、似てきたわ」
母がそう言うたびに、俺は複雑な気持ちになっていく。
似ていると言われても、俺はその顔を知らない。声も知らない。どんなふうに笑って、どんなものが好きなのかさえも。
母が望む“お父さんのような息子”でいれば、母は少しだけ笑顔になった。
だから俺は、これまでそうして生きていた。
小さなアパートの一室で、俺は母の期待する通りの形にこの身を強く押し込めていた。
明るくて、優しくて、しっかりした子。
そんな仮面をつけるたびに、本当の自分が遠ざかっていくような気がしていた。
母を支えることでしか、愛される方法を知らなかったんだ。
大学を出て就職すると同時に、俺は一人で大都会に出ていた。
母を置いていくことに罪悪感はあったけれど、それよりも、自由がほしかったんだ。
他人の期待を背負うことなく、一度でもいいから自由に好きなように生きてみたかった。
けれど自由とは、想像していたよりも静かで、寒かった。
夜、帰りの電車で窓に映る自分の顔を見るたびに、何かが欠けているような気がしていく。
仕事も人間関係も、そこそこ順調であるはずなのに。
なぜだか、誰とも深く繋がれない。
気づけば俺は、他人に対してどこか強く線を引くようになってしまっていたんだ。
俺の線の内側には、母親しかいなかった。
ある晩、部屋でテレビをつけていたときのこと。
やっていたのは、昔ながらのホームドラマ。
そこに出ていた“父親役”の俳優の表情に、思わず目が止まってしまう。
穏やかで、少し疲れていて、それでも誰かをあたたかく包み込むようなその眼差し。
胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
――俺は、こういう人を求めていたのかもしれない。
知らずのうちに、俺は異性ではなく同性に興味を持っていた。
恐らく、全ての異性は母のようなものであるのだろうと苦手意識を抱いていたんだと思う。
異性と過ごすより、同性と過ごしていた方がいくらか心が落ち着いた。
俺の初恋は、教師だった。
奥さんもいて、娘さんもいる。良き父親。
周りが軽口を叩くなかで、俺だけは真面目に授業を聞いていた。
その声が、好きだった。時折情熱的に語るその表情が、好きだった。
その夜、なんとなく始めたマッチングアプリで、俺は、イサムという名の男性の写真を見つけていた。
四十二歳で、翻訳の仕事をしているらしい。
黒い髪にはわずかに白いものが混ざって、整った顔立ちには深い皺が刻まれていた。
その笑顔に、なぜだか既視感があった。
——あのドラマの、父親に似てる。
衝動的に、メッセージを送っていた。
『はじめまして。ドラマ俳優の、〇〇さんに似てますね』
その軽い言葉の裏には、どうにも説明できない渇きのようなものがあったんだ。
***
返事が来たのは、次の日の夜だった。
『似てるってよく言われるけど、本人より地味ですよ』
その一文に、思わず笑ってしまう。
わずかに自嘲を含んだ言い方が、妙に人間らしくもあったんだ。
そこから、ゆっくりとやり取りがはじまった。
天気の話、好きな映画、休日の過ごし方。
どれも他愛のない会話だったけれど、イサムさんの文体にはひどく落ち着きがあった。
『一度、会ってみませんか?』
その言葉を受け取った時、指が震えていた。
——会いたい。でも、怖い。
まるで長年夢見ていた人に触れるような、憧れのような恐れが浮かぶ。
待ち合わせは、駅前の小さな喫茶店。
イサムさんでも気兼ねなく入れるように、流行りの店は控えておいた。
いつしか、小雨が降っていた。
ガラス越しに目にしたイサムさんの姿は、写真よりもひどく落ち着いていた。
コーヒーカップを持つ手に、わずかに年齢の跡が見えた。
「すみません、遅れてしまって……」
「……アキトくん、だね?」
「……はい」
声を聞いた瞬間に、胸がひどく高鳴った。
低く、少し掠れた声。
それはどこか、懐かしい響きを持っているような気がしていた。
向かい合って座れば、イサムさんは静かに笑いながらこう言った。
「実際に会うと、……若いね」
「そうですか?」
「二枚目だな」
——そんなふうに言われたのは、初めてだった。
コーヒーの香りと雨の匂いが混ざり合って、時間がゆっくりと流れていく。
仕事の話や、過去の恋人の話、それから、家族の話をした。
「それじゃあ……、今は……一人暮らし?」
「はい。母と離れて」
「そうなんだ」
イサムさんの表情が、わずかに曇る。
その目の奥に、俺と同じような孤独が見えたような気がしていた。
別れ際、店を出ると、まだ雨は降っていた。
駅までの短い道のりを歩く間、イサムさんは突然、俺の方に向けて傘を傾ける。
「濡れるよ」
「イサムさんのほうこそ」
「俺は、平気だよ。君が風邪をひいたら、困るだろう?」
その言葉に、心の奥がじんとした。
——誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。




