下町の火事騒動(1)
マーサ婆さんとは比較的古い付き合いで、知り合ったのは俺がこの王都に流れ着いてから割とすぐのころだ。
当時俺はギルバートさんの店に厄介になったばかりで、仕事といえばギルバートさんのお使いで街のあちらやこちらに出向く用事がほとんどだった。
その日も夕方まで外回りの用事を済ませ、下町を抜けて店に戻るところだった。
ここらの下町はスラム街のように荒れてはおらず、住民たちも仲が良くて活気のある気持ちの良い場所だった。表通りは石畳で整備されており、そこここに小さな広場があって共同の井戸や洗濯のための洗い場がある。地元向けの食堂なんかもあって、懐の寂しい冒険者や旅行者たちの知る人ぞ知る王都の名物店があったりする。
そんな普段は和気あいあいとした活気の満ちる夕食時に、なにやら騒動が起きていた。
「なにごとですか?」
「すぐそこの長屋でボヤ騒ぎだよ。大事にならなきゃいいんだけどねぇ。心配だよ」
洗った野菜を笊に乗せ、小脇に抱えた恰幅のいいおかみさんが少し先の路地のほうを見ている。目を凝らすと、表通りから少し入ったところにある高層階の長屋の前に人だかりができていた。
彼らが見上げる先の鎧戸から白い煙が上がっている。
王都で火事は御法度だった。
百年前に起きた大火事では多くの家が焼け、炎は王宮に届かんばかりの勢いで燃え広がったそうだ。多くの犠牲を出した教訓から、王都では萱葺きの屋根が禁止された経緯がある。今でも建物の上層階は木造だから、長屋が密集する下町では小さなボヤが原因で何棟もの建物が延焼し多くの住民が家財や命を失うことも珍しくない。
だから王都の住人はことのほか火災には敏感なのである。
「あそこは婆さんが独り暮らししている家じゃないか?」
「早く警ら隊に通報しろ!」
「もう行ってるよ。それより水、水を持ってこい!」
「ああもう、魔術師がいれば一発なんだがなぁ」
「連中がただで助けてくれるものかよ。とにかくバケツだ。手持ちのを持って広場に集まってくれ」
四階の窓から噴き出す煙は勢いを増しているように見える。
もうもうと噴き出す白い煙を見て、俺は考えるより先に走り出していた。
「どいてくれ、俺が行く」
「兄ちゃん、危ねぇぞ。手ぶらで行ってどうすんだ!?」
「これでも元冒険者なんだ。魔法も多少使える。レベル5だけどな」
「おお、それは心強い……って、レベル5じゃシロウト同然じゃねえか!」
口さがない声は無視して人垣を越えて長屋に入り込む。
階段を駆け上りながら防御系の初級魔法を唱えていく。
「『素早さの加護』、『守りの鎧』、『風の盾』……」
ひとつ唱えるごとに体を魔法の淡い光が包み込んでいく。レベルが低い分、数で勝負だ。
「氷の障壁……は現場に着いてからでいいか」
ようやく最上階にたどり着く。踊り場の正面にある一室のみの住戸から火の気配がする。
「誰かいるか?無事なら返事しろ!」
バンッとドアを蹴破る勢いで開ける。
「ケホッ、ケホッ」
煙を払うように顔の前を手で仰ぐ老婆が背中を丸めて立っていた。
「よかった。婆さん、ケガはないか?」
ほっとひと安心して近づく俺を老婆はじろりと睨め付けて言った。
「どこのどいつだい、ひとの家にノックもなしに飛び込んでくる礼儀知らずは?」
「うぇっ?えーと、火事では……?」
「はあ?何を寝ぼけたことを言ってんだい」
狭い部屋のかまどには古びた鍋がかかっていて、ぐつぐつと具材が煮込まれている。
古びた鍋は底に穴が開いているのか、ぽたぽたと水滴を滴らせており、それがかまどの炭火に落ちてもうもうと白い煙を立てていた。
「でも、ケホケホって……」
「おまえさんが急にドアを開けるから、煙が逆流してきたんだろうが。このすっとこどっこい!」
「うっ、すみません」
「まったく、今日はいつもより水漏れがひどくて苦労してるのに、料理の邪魔をするんじゃないよ」
「はい……」
お玉を振り回して説教をする老婆の剣幕に負けて身を小さくしていると、ドスドスッと物音が聞こえてきた。大男たちがバケツの水を抱えて階段を駆け上がってきたのだ。
「火事はどこだ!」
「火を消せ!」
口々に叫びながら狭い室内へと踏み込んでくる。
「騒々しいったらありゃしないね。料理中だってのにホコリを立てるんじゃないよ」
「マーサ婆さん、すぐに火を消さないと」
「馬鹿をお言いでないよ。料理の途中だよ。煮物がダメになっちまうじゃないか」
「でも火事が……」
「どこに火の手が上がってるっていうんだい?あんたたちの目は節穴かい?」
「だけどすごい煙じゃないか」
「鍋からちょいと吹きこぼれているだけさね。このくらいのことで大騒ぎをするんじゃないよ」
「とにかく一度かまどの火をけしてくれ。煙が出たままじゃ、警ら隊が来てこのあたり一帯水浸しになっちまう」
「あんたたちが早とちりして余計な世話を焼いたんだろうが。自分たちで責任取りな」
「だから婆さんが火を落としてくれりゃあ解決なんだって」
「ふん、勝手に人の家に怒鳴り込んできてかまどの火を落とせとはどういう了見だい。聞く必要はないね」




